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平成20年8月15日(金)昨日:北島康介、2大会連続2冠、日本競泳史上初。 北京五輪第7日の14日、男子200メートル平泳ぎで、北島康介(25)が、自己の世界記録に0秒13と迫る2分7秒64の五輪新記録で2大会連続の金メダルを獲得。2位に1秒以上の差をつける圧勝。100メートル平泳ぎも2連覇しており、日本の競泳史上初めて2大会連続2冠を達成。 五輪の200メートル平泳ぎの2連覇は、1928年アムステルダム、1932年ロサンゼルスの両大会を制した鶴田義行以来2人目。今大会の日本勢の金メダルは計5個になった。日本勢で最も多く金メダルを獲得した選手は、体操男子の加藤沢男で8個(団体競技での金を含む)。体操を除いた競技では、北島の4個が最多となった。 「終わったという感じ」北島選手、レース後に引退示唆 日本競泳史上初の五輪2種目連覇を達成した北島康介(25)(日本コカ・コーラ)は14日のレース後、「自分の中では、終わったという感じ。最後のつもりでやってきてるし、結果を残してチームもコーチも喜んでくれた」と話し、今大会限りでの引退の可能性を示唆した。 北島を長く指導してきた平井コーチもレース後、報道陣に囲まれた際に涙をこぼし「康介が全力で二百メートルを泳ぐのは、今日が最後かな?と思って見ていた」と発言。「皆さんの期待が今までと同じなら、続けるのは厳しい。僕から『やれ』とは言えない」と語った。
八月の 亡霊いまだ 消えやらず あきら
八月二十二日、詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の需めに応じ。 高浜虚子終戦日 妻子入れむと風呂洗う 秋元不死男 敗戦日 ただ抱きしめし末っ子よ 徳島・園田とく子
秋蝉も 泣き蓑蟲も 泣くのみぞ
8月15日、盂蘭盆会、やがては吾も「千の風」盂蘭盆会 その勲を 忘れじな 敵といふ もの今は無し 秋の月 黎明を 思ひ軒端の 秋簾見る 秋川雅史 『千の風になって』 無益な戦争で、吾らが得た唯一のもの、それが憲法九条であると…。 ◇ 死への憧憬、 三島由紀夫の「死の幸福」 あの人に会いたい「三島由紀夫」(1925〜1970) ◇「人間は何かのために死ぬ、それが大義というもの」 「今われわれが求めている幸福は生きる幸福であり、 自分が死ぬと決まっている人間の幸福は今はない。 名誉ある死、何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、 結局、「葉隠」の著者のように生まれてきた時代が悪くて一生、 そういう事を思い暮らしながら畳の上で死ぬことになるだろうと思います」 (この4年後、彼は割腹自殺を遂げる。) 彼は些か卑怯未練な手段で、兵役を免れた。そして、戦後20年を生きた時、 八月十五日の、あの強烈な日差しが、三島の全人格を揺さぶりだす。 『豊饒の海』ラスト一行は、このように書かれていた。 「庭は夏の日ざかりを浴びてしんとしている」 その少し前には「この庭には何もない。記憶もなければ何もない」とある。 彼は敗戦と共に死を迎えるべく、戦後25年を逆しまに生きたのかもしれない。 彼のライフワークは『豊饒の海』などではなく、「戦後25年」と言う壮大な ひとつのフィクションだったかも知れない。 三島由紀夫 vs 東大全共闘 1969.5.13 「諸君が『天皇』と、ひと言いってくれれば、喜んで諸君と手を結ぶのに…」 ※ 三島にとって、「天皇」は欠くべからざる舞台装置だった。 回想の「三島由紀夫」 三島は、東大全共闘に揶揄され、自衛隊員に嘲笑された。隊員の野次と ヘリの騒音の中、マイクを持たずに怒鳴る三島は、確かにピエロだった。 1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内、東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後、割腹自殺、享年45。決起当日の朝、担当編集者の手に渡った『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(日付は11月25日と記載)が最後の作品。彰武院文鑑公威居士。 ◇ 「憲法第9条第2項」に対する解釈改憲は、最悪の欺瞞 日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を、『日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞』と断じていた。演説で、三島は自衛官らに、「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」 ※ 三島の改憲への強い意志が、政界大物二人の同調者を得る。それが、不沈空母・佐藤栄作と風見鶏・中曽根康弘だった。佐藤は、日本の右派財界から募った資金で楯の会の活動を支援し、中曽根は(当時・防衛庁長官)、富士山麓で三島が私兵を訓練するのに便宜をはかった。 ◇ 老いへの懼れ(老醜を描けぬ作家) 三島には、自身の「老い」への恐怖があった。三島は「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか」と、友人に語っている。新潮社の担当編集者には「年をとることは滑稽だね、許せない」「自分が年をとることを絶対に許せない」と語っている。 伊藤整の『変容』のような作品は、三島には到底書けなかったろう。作家は、自身の内奥を作品化する。三島は、自身のフィクションを自らの内実としようと試みた。そのラストシーンが割腹だった。そしてそれは、青年時代の三島を捉えて離さなかった、『聖セバスチァンの殉教』そのものだった。 傷つきやすい人間ほど、複雑な鎧帷子を身につけるものだ。 そして往々この鎧帷子が、自分の肌を傷つけてしまう。 ― 三島由 紀夫 ― |

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