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平成20年9月5日(金)昨日:麻生・小池・与謝野・石原伸4氏出馬確実に。 福田首相の後継を選ぶ自民党総裁選(10日告示、22日投開票)は4日、既に立候補を表明している麻生太郎幹事長(67)(麻生派)に加え、小池百合子・元防衛相(56)(町村派)、与謝野馨経済財政相(70)(無派閥)が立候補に必要な国会議員20人の推薦人を確保した。石原伸晃・元政調会長(51)(山崎派)も推薦人集めの目途がつき、4氏の出馬が確実になった。経済政策が論戦の焦点となる見通し。 山崎派は派内に麻生、小池両氏らを支持する議員も抱えているが、同派幹部は4日、「会長の山崎拓・前副総裁の意向を受け、自主投票になる」と述べた。石原氏の出馬を容認するという見通しを示したものだ。石原氏は推薦人確保に関し、山崎派だけでなく、他派閥の中堅・若手の協力も得ている。 一方、伊吹派は役員会で、麻生氏の支持を決めた。麻生氏を応援する議員がつくる「太郎会」(会長=鳩山邦夫・前法相)も都内で会合を開き、麻生氏の当選を目指して結束する方針を確認。麻生氏は本格的な出馬準備に入るため、5日に笹川総務会長と会い、幹事長の職務代行を要請する。 9月5日は、堀田善衛忌です。(1998年) ◇ 堀田善衛(1918年、富山県高岡市生まれ、墓所:北鎌倉・東慶寺) 9月5日午前10時7分、横浜市内の病院で逝去、脳梗塞。 『広場の孤独』 岐路における選択の片方は、つねに死である。如何なる場合にも、人は生を選びえなければならぬ筈である。木垣には、一九五〇年の七月某日、喫茶店の椅子にぐったり腰を落しているのは、木垣幸二という特定の人物ではなくて、どこの誰でもいい任意の人物のように思いなされた。人は選ぶことによつて数学の単位のような任意の存在から、意味をもった特定の存在になるのである。彼の周囲では、選択は畳み込み追い込むように行われていた。新聞も経済も戦争の方に張り込み、輿論調査と称するものによれば、国民の大部分も決定をしたことになっている、たとえそれがかりそめの恐怖にもとづくものであろうとも。 木垣は自分の手を凝っと見詰めた。彼の手も汚れているのだ。そしてその汚れこそが真に彼自身にほかならぬのだ。しかしその汚れを正当化し、口実をみつけるために選ぶこともまた、己れを裏切ることにほかならない。彼は再び、放出のコーヒーやチーズやバターを行商してあるく、近所に住む追放された党員のKを思い出し、また先夜の特需景気に酔った労働者を思い出した。絶対に手を清くする純粋の道徳 --- そんなものは存在しない。だとすれば、あの労働者の赭ら顔こそは健康なものであって、椅子の上に〈死んでいる〉木垣こそは、実に本当に死んでいるのではないか。 『定家明月記私抄』 『明月記』は、鎌倉時代の公家・藤原定家の日記。定家が治承4年(1180年) から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたり、微に入り細に入り克明に記録した日記。日記としての価値もさることながら、歴史書・生活記録としても価値が高い。ただし、漢文で記されていて難解な部分も多いとされる。また、定家自身の体験に基づいていない記録も含まれ、1054年のかに星雲の超新星爆発は、定家誕生以前の出来事であるが、伝聞として記載されている。 日記の主な部分は冷泉家時雨亭文庫に残り、芸林荘・東京国立博物館・京都国立博物館・天理図書館にも所蔵される。歌道、書道の流派での定家への尊崇から早い時期から分散し、掛け軸などにして諸家に秘蔵されるものも少なくない。一部が国宝に指定されている。 『私抄』は、堀田善衛が青年時代から暖め40年の歳月を要して書き上げたもの。本文の和訳がカタカナで書かれている。堀田は、定家の青年時代から壮年に至るまでの、和歌と日々の生活とを追体験するように読みついでゆく。天性の遊び人間である後鳥羽院への宮仕えにまつわる愚痴。市井の人々の生活苦など全く意に介さない都びとへの慨嘆。そんな環境の中から、風流の道・和歌が完成されてゆく。 『定家明月記私抄』の読者は、定家の時代を追体験しながら、堀田善衛の精神史をも追体験できる。人間、文学、歴史を一挙に概観でき、しかも細部に宿り給う神意をも仄かに垣間見ることができる名著。 ※ 名だたる歌人として一定の地位を得た定家が、後鳥羽院の熊野詣に随行した時は、既に40歳。おそらくは今日の還暦の齢よりも御老体であろう。定家は漸く前年に昇殿を許されたばかり。自分の子どものような年齢の少将どもと混じり、余りの情けなさに吾が身の不運をかこち、院のわがままに振り回され、持病をおしての宮仕えの労苦など、八百年前の官僚の日記が、身近な出来事として蘇える。ある意味、人間なんてちっとも進歩していない、なんて所感も湧いてくる。 『定家明月記私抄』(冒頭部分)初出「波」(昭和56・1〜59・4) 国書刊行会本(明治四十四年刊)の『明月記』をはじめて手にしたのは、まだ戦時中のことであった。言うまでもなく、いつあの召集令状なるものが来て戦場へ引っ張り出されるかわからぬ不安の日々に、歌人藤原定家の日記である『明月記』中に、 世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。 (世の中、戦なんどと騒がしいけれど、ほっとけばいい、おれの知った事じゃない。) という一文があることを知り、愕然としたことに端を発していた。その当時すでにこの三巻本を入手することはまことにむずかしかった。私は知り会いの古本屋を、いつ召集されるかわからぬのに、この定家の日記を一目でも見ないで死んだのでは死んでも死にきれぬ、といっておどかし、やっとのことで手に入れたものであった。 定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されるかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった。ましてこの一言が、わずかに十九歳の青年の言辞として記されていたことは、衝撃を倍加したものであった。 ※ 遊びに賭ける院の熱情は、まさに常軌を逸する底のもの。一期は夢よ、ただ狂へ。 「定家明月記私抄」 ちくま学芸文庫 \945 「定家明月記私抄 続篇」 ちくま学芸文庫 \1,155 |

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