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平成20年9月8日(月)昨夜:中日、平田の代打サヨナラ弾「狙ってた」。 <中日5−4横浜>(7日、ナゴヤドーム) 平田良介外野手(20)が代打サヨナラ本塁打を放って勝負を決めた。4−4の9回1死、横山からプロ初本塁打を右中間席へ運んだ。この日は2軍戦でも本塁打を放っており、「もう12時間もナゴヤドームにいます。ホームランは狙っていた。打った瞬間いったと思いました」と会心の笑みを見せた。 ※ 同一カード3連勝は今季初。波に乗れない今季を象徴しています。とまれ、貯金「1」とし、借金生活からは脱却? Aクラスをなんとかキープ。(今のところ…) 9月8日は、「帰雁忌」です。(水上勉の忌日、2004年) ◇ 水上 勉(みずかみ つとむ、1919年〜2004年) 福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)生まれ。旧制花園中学校(現・花園中学校・高等学校)卒業。1937年、立命館大学文学部国文科中退。 苗字の「みずかみ」は本姓で、筆名として長年「みなかみ」が使用された。 大工の家に生まれ、5人兄弟の次男として育った。9歳の時、京都の臨済宗相国寺塔頭(たっちゅう)、瑞春院に徒弟として修行に出されるが、のちに出奔。連れ戻されて等持院に移る。その当時の経験が、のちの『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされる。十代で禅寺を出たのちは、様々な職業を遍歴しながら小説を書くが認められず、経営する会社の倒産、数度にわたる結婚と離婚、最初の結婚でもうけた長男(窪島誠一郎)との別離など、家庭的にも恵まれないことが多かった。 ※ この当時の暮らしぶりを水上自身が「ヒモのような生活でしたね」と述懐。 1946年頃、宇野浩二を文学の師と仰ぐ。1947年刊行の処女作『フライパンの歌』が好評を博すも、その後しばらくは生活に追われ体調も思わしくなく、文筆から遠ざかる。 1959年、服の行商のかたわら書き上げた『霧と影』で執筆を再開。この作品は、友人・川上宗薫の紹介で、河出書房の編集者・坂本一亀の手に渡り、4回の書き直しを経て出版へとこぎつけた。川上宗薫とはその後、互いに、相手を誹謗するモデル小説を書きあった結果、不仲となる。 1960年、水俣病を題材にした『海の牙』を発表、翌年、第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞。社会派推理作家として認められた。同年『雁の寺』で第45回直木賞を受賞、華々しい作家生活が始まる。 『飢餓海峡』(1963年)、『くるま椅子の歌』(1967年)などを発表。『越前竹人形』『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』『五番町夕霧楼』『櫻守』、伝記『良寛』『一休』、童話『ブンナよ、木からおりてこい』、そして数々のエッセイなどを旺盛に書き続ける。 次女が脊椎破裂症という病気であったことから、身体障害者の問題に関心を抱き、『くるま椅子の歌』の他に、『拝啓池田総理大臣殿』など社会福祉の遅れを告発する発言や文筆活動もしばしば行った。 1985年、福井県大飯町(現・おおい町)に「若州一滴文庫」を創設、竹人形を使った人形劇の上演にも力を尽くした。 ※ 現在、「若州一滴文庫」はNPO「一滴の里」が運営する。実は「若州一滴文庫」は経営難でしばらく閉館を余儀なくされていた。 「若狭の若いお父さんたちが信州の私のところに来て、一滴文庫を下さいと言ってくれた。NPOを作って活動していくという。NPOの出現は夢ではないかと思った。子供の頃に見た竹人形劇が忘れられないと言ってくれた。ありがたいことだ。そんなことならどうぞ好きに使いなさいと答えた。若狭の若いお父さんたちがNPOをこさえて、私の想いを引き継いでくれた。町も賛成してくれた」( 水上 勉 「一滴文庫 再開に寄せて」) 1989年、心筋梗塞で倒れ、その後も網膜剥離の手術を受けるなどしたが、最期まで執筆意欲は衰えず、2004年9月8日、長野県にある仕事場で逝去している。享年85。没後、正四位を贈位され、旭日重光章を授けられた。『雁の寺』に因み、帰雁忌と呼ばれる。 ◇ 天安門事件を目撃した水上 勉 1989年6月4日の天安門事件の当日、日本の作家代表団の団長として北京に滞在中、水上氏は事件に遭遇する。ホテル7階から、目の前で繰り広げられる惨劇を具に目撃する。 「五日の早朝はいい天気で、戦車が警戒する長安街にひょこひょこ出てゆく七十すぎの老人を見た。太い並木のコブに上着をかけると、裸でゆっくり太極拳体操をはじめた。美しい朝陽が、東の空から、長安街を照らし、むろん、戒厳令が出ているのだから自転車に乗る人も通行人もいない。深閑とした朝靄の中で、ゆっくり、ゆっくり手足をうごかしている、名も知らぬ人の体操を見ていたら、昨夜そこで、血の流れる大騒ぎがあって、まだバスの残骸から煙がでているのに、何ともその爺さんと、まわりの樹にあたっている陽のかげんが閑かに見えるのである。あっと声を呑んで息のとまるような感動をおぼえた。どうして睡眠不足の私の眼からあんなに朝から涙が出たか。躯の水気がぜんぶ眼にあつまって頬がぬれ、口角に吸いこまれた」( 水上 勉 「集中治療室の思い出」) 命からがら戒厳令下の北京を逃れ、救援機であわただしく帰国した翌朝、彼は重度の心筋梗塞に襲われる。「水上勉氏、倒れる」というニュースが流れた。死に瀕すること数日、幸いに生還するも心臓の三分の二が壊死した。以後二年間、入退院を繰返す。それは、己の死を見つめる静かで優しい日々でもあった。その間の消息は、『心筋梗塞の前後』に書かれた。 ※ 9歳の時に瑞春院で得度し厳しい修行を過ごしたが、13才の時に寺を出奔。「雁の寺」はこの瑞春院時代を舞台にしたもの。水上氏の「雁の寺」は、寺の淫靡な内幕を暴露する内容。瑞春院のみならず京都の寺院方にとって、水上氏は大変な嫌われ者になった。しかし、時は流れて幾星霜、今では「雁の寺」をキャッチコピーにして売り込むようでございます。 ※ 幼かった水上勉氏が「雁」と思い込んでいた襖絵は、実は「孔雀」であった。直木賞を受賞された頃に、それを知った。その後、映画化された時に、出奔後初めて瑞春院を再訪した水上氏は、孔雀の襖絵の隣の、位の高い僧しか入れない部屋の襖絵が、雁であることを初めて知らされる。因みに、孔雀は毒蛇さえも食べる鳥で、「煩悩を消しさる鳥」として描かれるとか。 |

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帰雁忌のご案内を毎年受け取っているのですが、どうしたわけか、都合がつかず、足を運んでいないことが忌になっています。
ところで、一滴文庫のくるま椅子劇場で、若州人形座公演「五番町夕霧楼」があります。5月23日・24日 午後2時開演
興味のある方は、是非ご覧ください。
2009/4/22(水) 午後 6:33