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平成20年9月16日(火)中日クライシス:今夜にもBクラス転落? ◇ 金総書記重病説、「日本政府あまりに鈍感」、お気楽ニッポン 9日に表面化した北朝鮮の金正日総書記の重病説を受けて、韓国、米国が「不測の事態」を視野に走り出す中、日本政府は関係省庁による公式の情報分析・対策会議も開いていない。北朝鮮での異変の兆候は日本の安全保障に直結する重大問題なだけに、「日本政府はあまりに鈍感だ」(北朝鮮問題専門家)と対応を懸念する声も聞こえる。 “開店休業”、福田首相辞任表明で官邸機能休止、しもた屋状態 韓国では李明博大統領が10日、緊急安全保障関係閣僚会議を招集。総書記の病状に関する情報収集や分析を行ったほか、国家情報院も同日の国会情報委員会で分析を報告した。 米国も、ブッシュ大統領が9日以降、CIAなど情報機関から総書記の容体に関する報告を刻々と受けている。また韓国とは、緊急事態を想定した共同対応計画の具体化への交渉を加速させる方向のほか、中国とも北朝鮮の体制崩壊に備え、対応の協議を開始したとされる。 一方、北朝鮮の核やミサイルの脅威にさらされ、拉致問題も抱えている日本政府は現段階で、「さまざまな情報はあるが具体的なコメントしない」(町村信孝官房長官)との立場。表立った動きも金総書記の重病説が流れた10日の昼前、三谷秀史内閣情報官が福田康夫首相に約15分間、総書記の容体をめぐる情報の分析を報告した程度。 政府関係者は「そもそも統一した情報収集機関がないのに加え、独自ルートで情報がとれないから動くに動けない」と説明する。自民党内には、「福田康夫首相が1日に辞任を表明した後、官邸機能は事実上休止状態になっている。自民党も総裁選一色で、眼下の北の脅威を忘れてしまっているのではないか」(閣僚経験者)との声もある。 ※ 『ゆでガエル現象』がニッポンを潰す? 「ゆでガエル」の寓話をご存知の方は多いでしょう。刻々と変化していく状況に対応できず、安穏と毎日をルーチンワークの連続でやり過ごしていると、やがてその組織は取り残され機能しなくなるというもの。北朝鮮問題もさることながら、地球環境問題など、その典型とも言える。 農水省と三笠フーズ(foods=食品)との癒着など、わが国って“ゆでガエル天国”? ゆでガエル? オレのことかと霞ヶ関。 9月16日は、大杉栄 忌です。(1923年の忌日)(甘粕事件) ◇ 大杉栄(榮)(1885年生まれ)(明治18年〜大正12年) 思想家(アナキスト)、作家、社会運動家。伊藤野枝との間に五子をもうけた。長女・魔子(後に真子)、次女・エマ(後に幸子)、三女・エマ(後に笑子)、四女・ルイズ(後に留意子)、長男・ネストル(後に栄)。大杉、伊藤の死後、伊藤の実家に引き取られ、その際に改名された。 父・大杉東は大日本帝国陸軍の軍人、香川県丸亀に生まれる。父が近衛連隊から左遷され、新潟県新発田市に赴任。幼少年期のほとんどを新発田で過ごす。日清戦争にも赴いた父からは、折りにふれ軍人として仕込まれたこともあり、軍人をめざし1899年、名古屋地方幼年学校に14歳で入学する。 学校内では奔放な生活を送るが、「下士官どもの追窮が残酷」と感じるようになり、修学旅行での下級生への性的な悪戯に対して禁足30日の処分を受ける。 「尊敬も親愛も感じない上官への服従を盲従」と思うようになる。 憂鬱な気分が嵩じ、軍医から「脳神経症」と診断され、病暫で幼年学校の外に出ると快活な少年に戻ったが、学校に帰ると凶暴な気分になったという。同期生との喧嘩で相手にナイフで刺される騒動を起こし、1901年に退学処分となる。幼年学校における成績はアンバランスの極みで、実科では首席、学科でも次席だったが、操行は最下位だった。 1906年3月、電車値上反対の市民大会に参加、兇徒聚集罪により逮捕、6月保釈。同年11月には『光』紙掲載の「新兵諸君に与ふ」で新聞紙条例違反で起訴され、社会主義運動の闘士となる。1908年1月17日、屋上演説事件で治安警察法違反となり逮捕される。同年6月22日、錦輝館に於ける山口孤剣の出獄歓迎会で赤旗を振り回し、警官隊と乱闘でまたもや逮捕(赤旗事件)。それまでの2年半近くの刑務所生活で語学を学び、受刑する度に語学力が向上したと言われる。 ダーウィンの"The Origin of Species"を『種の起原』という邦題で翻訳出版し、『ファーブル昆虫記』を日本で初訳出版している。 アナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に、荒畑や古くからの同志の反発もあり、復活させた『近代思想』も1916年始めに廃刊。同年には伊藤野枝との恋愛が始まり、堀保子との婚姻関係が続く中、以前から恋愛関係にあった神近市子に刺されるという事件(日陰茶屋事件)が起こる。このため、大杉は同志らから完全に孤立する。 1923年、大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い警察に逮捕され、ラ・サンテ監獄に送られる。その後、日本へ強制送還、7月11日神戸に戻る。滞仏中から滞在記が発表され、後に『日本脱出記』としてまとめられる。東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇する。(関東大震災:大正12年9月1日午前11時58分32秒) 1923年9月16日、柏木の自宅近くで伊藤野枝、甥の橘宗一(6歳)と 共に大杉栄は憲兵に連行され虐殺される(甘粕事件)。 虐殺の実行容疑者として憲兵大尉・甘粕正彦と彼の部下が軍法会議にかけられる。公判内容は毎回新聞報道された。実行者としての甘粕と森は有罪判決となるが、戒厳令を発した国家権力と軍の責任は問われることはなく、甘粕による個人犯罪と結論づける。国家と軍隊への責任追及がないままに決着させた。 震災時における朝鮮人虐殺の責任逃れを正当化しようと、朝鮮と日本のアナキストの連合グループ、不逞社の朴烈、金子文子らを「大逆事件」として炙り出す。メンバーで獄中病死した新山初代は震災直前の8月、大杉に勉強会での講師依頼をし、また大杉の呼びかけた集まりにも出席していた。 ※ 大杉、伊藤を虐殺したのは甘粕。宗一少年を殺害したのが鴨志田安五郎、本多重雄の両上等兵、そして犯行全体に森慶次郎が関与していた。甘粕は1926年10月に釈放され、夫婦連れで2年間のフランス留学(官費)を経て満州に渡る。甘粕はその後、満州で暗躍。終戦時に服毒自殺する。 |

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