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9月29日、遠藤周作忌

 平成20年9月29日(月)昨日:中山前国交相の日教組批判「確信的に申し上げた」

 「確信的に申し上げた」「国民の関心を引きたかった」。「失言問題」でたったの5日間で大臣を辞めた中山国土交通相。28日の辞任会見でも、日教組に対する批判は止まらなかった。28日朝、麻生首相に辞表を提出した中山氏は国交省での辞任会見に臨み、約1時間にわたって持論を述べた。

 「記者会見以来、『よく言ってくれた』『がんばれ』『辞めるな』といった山のようなメールをもらった。電話も深夜まで鳴り続けた」と、まずは自分の発言に多くの人が共感していることをアピール。 その上で、日教組について、「まじめに授業に取り組む先生もいるが、政治的に子どもたちをだめにして日本をだめにしようという闘争方針のもとに活動している方々がいる」と改めて批判。「国交省の建物の中で発言したことは撤回したが、政治家・中山成彬としては撤回したという考えはなかった」と言う。

 ※ 中山氏は、反麻生の“刺客”だった?

 「成田空港『ごね得』」や「日本は単一民族」という発言に関しては「言葉足らずだった」と撤回したものの、日教組批判は「失言」ではなく、「政治信条」と言い切った。地元・宮崎で27日、「日教組をぶっ壊せ」と語った際、すでに辞任を決意していたという。「ゆがんだ教育が行われていることに、国民の関心を引きたかった」「大臣としての職を賭してまでも、子どもたちのことを考えた大臣だったと説明してもらうとありがたい」とまで言った。

 ※ そもそも中山氏自身が、ごね得で大臣ポストを手にしたとか。

 「日教組の強いところは学力が低い」という発言について、「相関関係がないのでは」と指摘されても、「大体そういう傾向にあると思っている」と撤回はしなかった。ただ、学力が低いと名指しした大分県民に対しては「申し訳ない」と陳謝した。(この発言には、資料的根拠はない。)

 日教組問題は大阪問題に飛び火。一部、大阪府と大阪市の問題を混同しながら、「日教組や、いわゆる官公労の組合の支援を受けている民主党が政権を取れば、いまの大阪府のようになる。職員の給料は高いしヤミ手当はあるし、裏金はあるし……。今回の選挙は、日本を大阪府にしないための選挙だ」と言う。

 中山氏は28日午後、地元・宮崎の団体から推薦をもらうため、一時的に宮崎入り。宮崎市の事務所でも会見し、日教組をめぐる発言の狙いについて、「(日教組や自治労が支持する民主党が政権を取れば)日本は大変なことになる。その広報を私は務めないといけない」と説明。29日朝にはTBS系の番組に出演することも明かし、「さっそく『朝ズバッ!』に出るということは、そういう役割が回ってきた」と張り切っている。

 ※ 中山氏の奥様が、拉致問題担当首相補佐官を務める中山恭子参院議員であるとは、縁は異なものサプライズ。



 9月29日は、遠藤周作忌です。

 ◇ 遠藤周作(1923年〜1996年)

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 順子夫人の回想 (2008/03/07)

 遠藤周作氏は生前、文学活動と同じくらい、医療者と患者が心温かな人間関係をつくる運動に情熱を注いだといいます。無駄な延命治療の中止もその運動の一つでしたが、自身の臨終の際には、その意思が反映されなかったといいます。順子夫人は長い看護生活を経て、周作氏から「死は終わりじゃない」とのメッセージを受け取ったと言います。

 主人の最後の闘病生活を振り返るとき、主人が昭和57年に始めた「心あたたかい病院運動」について、触れずにはいられません。 主人は「終末期は心温かく安らかに死ぬべきだ」と提唱しました。きっかけには、わが家のお手伝いさん、友ちゃん(享年25)との悲しい別れがありました。

 友ちゃんは骨髄の癌で、病気と分かった時にはすでに手遅れでした。余命1カ月なのに検査、検査で…。主人は毎日病院に行って、主治医に「助からないなら、つらい検査はやめてくれ」と掛け合っていました。「もう助からない病人にわれわれができることは、そばで手を握って、君は1人じゃないと伝えることだ」と。 そして、「医者が『あと1カ月の命』というなら、『あと1カ月で楽になるそうだよ』と言い換えることだ」と申しておりました。

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 当時の医療は治らないと分かったら、放っておくか検査づけにするか、どちらかでした。主人は友ちゃんの死後、医療者は明らかに無駄だと分かっている延命治療をやめ、死に逝く人の話を聞き、心に寄り添ってほしいという意見をマスコミに発表しました。しかし、「素人が何を言う」「売名行為だ」と批判も大きかったんです。 でも、主人は「これは日本人として、絶対に言わなければならない」と、文学と同じくらいの情熱を注いで取り組んでいました。

 主人は最後の数カ月は入院しましたが、腎臓病になってから3年半の闘病生活のほとんどを、自宅で過ごしました。透析でつらい夜が続きましたが、慣れてくると、昼間は仕事をしたり、友人と夕食を楽しんだり。透析で食事制限が緩くなったのには助かりました。

 意識はしっかりしていましたが、最後の1年くらいは、あまり声も出せなくなってしまって。結核も肝臓も糖尿もこれまでずっと2人で乗り切ってきたのに、今回ばかりは悪くなる一方。私は「どうして治らないの、こんなに祈っているのに」と、神も仏もいないと思いました。

 主人はどの病院に入院しても、常々、院長先生や主治医に「2、3日の延命のために、苦しい延命治療や人工呼吸をしないでくれ」「心安らかに死なせてくれ」と、頼んでおりました。ところが、いよいよ臨終というときに、「奥さま、ちょっと出ていてください」と、部屋から出されてしまったんです。「どうぞお入りください」と通されたときには、主人が一番、嫌がっていた人工呼吸器がつけられていました。

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 本当にびっくりしました。でも、先生方は主人の意思をよくご存じだったから、これは2、3日の延命のためじゃなくて、快方に向かうために呼吸器をつけたんじゃないかと、思い直したんです。ところが翌日、「奥さま、もうそろそろよろしいですか」と。最初、何がそろそろよろしいのか分かりませんでした。そしたら、先生が「これ以上はおつらいことが増すばかりで…」とおっしゃったんです。「それだったらなぜ、人工呼吸器なんてつけたの」と、ものすごいショックでした。

 ずっと看病をしてきて、最後にいちばん嫌なことをさせてしまいました。それは遺族にとっては、とてもつらいことです。患者から「人工呼吸器ではなく、このまま安らかに」と言われたら、お医者さまもそれは守らなきゃ。死は軽いものじゃないのですから。 結局、人工呼吸器を外しました。臨終の際の主人は、これまで一度も見たこともないような、穏やかでうれしそうな顔をしていました。「今、神様に会ったよ」というような。

 その顔を見ていたら、主人から「死は終わりじゃない。おまえにもまた会えるよ。愛する人との死別に出合うのは、おまえ1人じゃない。しっかりしろ」と、激励された気がしたんです。手と手を握りあって意思疎通をしたこの何年間がなかったら、受け取れなかったメッセージだったろうと思いました。主人を看病した3年半は肉体的にも苦しかったですが、このメッセージを受け取るためにあったのですね。「神様お見事です」と、そう思ったんです。

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 遠藤ボランティアグループ
 http://www2.journey-k.com/~endo_vg/index.html

 長崎市 遠藤周作文学館
 http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/endou/index.html
 〒851−2327 長崎県長崎市東出津町77番地 TEL 0959−37−6011

 【参照】3月27日、遠藤周作の誕生日(1923年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/30452729.html


 【参照】9月29日、招き猫の日
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/20615905.html

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