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10月24日、永田雅一忌

 平成20年10月24日(金)昨日:またも遺体の身元取り違え、福岡県警。

 福岡県大牟田市内の駅で倒れているのを発見され、病死と確認された男性(58)の身元を、大牟田署が別人と取り違えていたことが23日分かった。死亡したとされた男性(61)の親族が火葬を済ませた後に、男性が生きているのを発見、同署があらためて指紋などを調べて間違いが発覚。

 男性は大牟田署に出向いて「おれは生きとるばい」と説明、同署は男性らに謝罪した。上野恵造副署長は「確認が甘かった。今後徹底したい」と話している。福岡県警では8月にも遺体の身元取り違えがあったばかり。

 同署によると、死亡した男性は17日朝、大牟田市内の駅で倒れているところを発見され、搬送先の病院で病死と確認された。当初、所持品とみられていたバッグに同市内の男性名義の預金通帳などがあり、大牟田署はこの男性の従兄弟に確認。「間違いない」との答えを得て、遺体の身元を確定した。 死亡したとされた男性は、自分の預金通帳が入ったバッグについて「行方不明になった」と話しているという。

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 ※ 死んでいるはずの人間が、この世に存在するという事。
 ※ 生きているはずの人間が、あの世に存在するという事。
 ※ われわれは、一体、どちら側の存在であるのだろうか? (Ontology)



 10月24日は、永田雅一忌です。

 ◇ 永田雅一(1906年〜1985年)
   「永田ラッパ」 映画を理解しなかった映画制作者

 京都市に染料と友禅の問屋を営む永田芳太郎・紀美夫妻の長男として生まれる。少年時代は非行に走り、京都のヤクザ「千本組」に籍を置いたこともある。マキノ兄弟との縁から1925年、日本活動写真(日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩む。 戦後、河野一郎や岸信介との交流から一次期、政界のフィクサーとなっていた。特に警職法改正で閣内が分裂した際、当時の岸首相が大野伴睦に対してされたとする政権禅譲の密約を交わした際の立会人として、萩原吉太郎、児玉誉士夫と共に居たとされる。

 1934年、日活を退社して第一映画社を創立し、自前のスタジオにて映画製作をしている。1936年、同社が解散する際には、従業員を前に涙の解散の弁を語ったとされる。その後は、松竹の大谷竹次郎の知遇を得て、俳優達を引き連れて大谷が経営する新興キネマの京都撮影所長となる。しかし、竹中労の「聞書き アラカン一代」によると、撮影所長の職は第一映画社を解散する前に約束されており、そもそも第一映画社の投下資本は「松竹」の出資であったとしている。大谷の実弟である白井信太郎(新興キネマ)をバックにつけて、日活の分裂に動いた永田が、そのまま大谷の傘下に入ったとしており、引き抜きや労務管理の汚れ仕事を受け持つ悪辣な別働隊であったと暴露する。

 1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際、業界を東宝ブロックと松竹ブロックに二分する動きがあるのを察知し、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功する。成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、自らは専務に就任。1947年には社長になっている。

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 1951年、『羅生門』のヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞を契機に『源氏物語』『雨月物語』『地獄門』等の国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。

 永田は、『羅生門』について製作立案の段階から無関心であった。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者らに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を吹聴した。当時の風刺は、「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄する。

 大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それ故プロ野球以外の副業には殆ど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。東宝の小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに、製作すれば必ず僕のところで上映しよう」と言ったとされる。

 1953年(昭和28年)には、松竹、東宝、東映、新東宝に呼びかけ、五社協定締結を主導する。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止するものだった。五社協定は、1954年に映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが、1961年の新東宝倒産を受けて、新たに日活を加えた、テレビ対策でもある悪名高き五社協定が確立する。この協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子や田宮二郎は永田との確執から大映を退社する。

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 1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽化の中で、製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に陥り、「永田ラッパ」と呼ばれた放漫なワンマン経営、長谷川一夫の引退、五社協定による山本・田宮の解雇、市川雷蔵の急逝(1969年)、大型新人スター不在などが重なり、1971年(昭和46年)12月23日、東京地裁より破産宣告を受けて、大映は倒産する。それでも永田は、1976年に永田プロダクションを設立。同年、大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』でプロデューサーとして映画界に復帰した。熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には中村錦之助主演で映画「日蓮」を製作した。


 ◇ 日蓮宗信者としての永田雅一

 永田は、母・紀美の影響から熱心な日蓮宗信者であった。紀美は、家業の友禅染問屋が急激に傾いた事を契機に日蓮宗に入信。身延山への百回詣での願掛けをし、毎年登拝し続ける母の姿を見守る。後年、『人一倍雑念的存在であるわしが、殊勝にも信仰の道に入ったのは、全て母の信仰心に負うものなんじゃ』と語っていた。後に信徒総代となり、失火により焼失した鐘楼をほぼ一人寄進で再建するほか、様々な施設の寄付にかかわる。また、紀美の銅像を境内に建立しているが、総本山での一個人の銅像建立は極めて異例。
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 【参照】10月24日、博多おくんち&文鳥の日
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/22309158.html

 【参照】10月24日、コンコルド、ラスト・フライト(2003年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/37638943.html

 【参照】10月24日、日本シリーズ第3戦(2006年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/22337588.html

 【参照】ミートホープ・田中稔元社長、逮捕(2007年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/37641410.html

 【参照】巨人、CS3連敗で銀座Vパレード消滅(2007年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/37648299.html

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