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平成20年11月3日(月)昨夜:日本シリーズ第2戦、ラミレスのサヨナラ弾でタイ。 11月3日は、湯川秀樹、ノーベル賞決定の日です。 1949年11月3日、湯川秀樹氏にノーベル物理学賞が贈られることが決定。 これは日本人で初めてのノーベル賞受賞で、戦後日本に活況をもたらす。 ◇ 受賞対象の中間子理論 テーマは「原子核の中で、どうして陽子と中性子がバラバラにならずにいられるのか」というものでした。湯川博士は、原子核の中にプラスの陽子と電荷をもたない中性子だけがあるとすれば、プラスの電気をもつ陽子どうしが反発して粒子がバラバラになってしまうのではないかという疑問をもっていました。原子核にはマイナスの電荷をもつ電子も存在していますが、この電子は原子核のはるか外側を回っています。電子の力では原子核の崩壊を抑えることなどできるはずがないのです。「陽子と中性子をつなぎとめる何らかのしくみがあるはずだ」。そのしくみを理論によって突き止めようとしたのです。 その頃の湯川博士は、枕元にノートを置いておき、寝ながら考えが浮かぶとそれを記録していました。そしてある晩、探し求めていた答えがひらめきました。「陽子と中性子は、何か別の粒子をキャッチボールしているのではないか? しかし原子核はたいへん小さく、キャッチボールの距離もきわめて短い。きわめて短い距離を飛ぶ粒子は、非常に重いはずだ。非常に重いために、粒子はほんの一瞬しか存在できずに発見されないのでは……」。計算してみると、この粒子は電子の200倍ほどの重さをもつことがわかりました。その重さは陽子と電子の中間であることから、「中間子」とよばれるようになりました。 湯川博士はこの中間子理論を仮説としてまとめ、1934年に東京大学で開かれた日本数学物理学会ではじめて発表しました。しかしその理論はあまりにも大胆で、それまでの物理学の常識をくつがえすものであったために、相手にされませんでした。「湯川博士の声は小さくて、何を言っているのかさっぱりわからなかった。もう一度はじめから発表しなおしてくれませんか」という声があがる始末でした。 しかし友人の仁科芳雄博士は興味を持ち、湯川博士を励ましました。幸運は湯川博士を見捨てませんでした。1937年に湯川博士が予言した粒子と同じような重さの粒子が発見されたのです。その粒子は宇宙からやってくる宇宙線からみつかりました。その後、その粒子は湯川博士が予言したものとは違うことが判明しましたが、中間子理論は世界の脚光を浴びるようになりました。 湯川博士の中間子理論は「素粒子の相互作用について」と題され、英文でも『日本数学物理学会記事』に収録されていました。素粒子物理学研究の中心地である欧米の研究者たちは、「日本にユカワのような人物がいたとは驚きだ」と衝撃を受けました。湯川博士と高校・大学で同級で、後にやはりノーベル物理学賞を受賞することになる朝永振一郎博士は、留学先のドイツで湯川博士に向けられた熱い視線を目の当たりにしてたいへんな衝撃を受けたといいます。 1947年には、実験によって湯川博士が予言した中間子の存在が明らかになり、湯川博士の理論が正しいことが証明されました。 1949年、ノーベル物理学賞が湯川博士に授与されるというニュースが世界中をかけめぐりました。その頃の日本は、第二次世界大戦後から立ち直れず、暗く悲しい雰囲気が漂っていました。明るいニュースを待ち望んでいたラジオや新聞は「全世界的に最大の名誉」「万歳!」と湯川博士の偉業を賞賛しました。 湯川博士は受賞の第一報をアメリカで聞きました。コロンビア大学の教授として赴任していたのです。湯川博士は、受賞後のインタビューにこたえて次のように語っています。「人類の利益になる研究を続けていくのは喜びです。しかし日本にはあらゆるものが不足しており、科学研究も劣っています。もっと日本の若い科学者をアメリカに留学させなければなりません。私も研究のための物資を日本に送ることができたら…… 」。 アメリカ滞在中に、湯川博士はアインシュタイン博士と出会いました。偉大なる理論物理学者のアインシュタイン博士は、日本への原爆投下をくい止めることができなかったことを、涙を流してあやまりました。この後、湯川博士はアインシュタイン博士を慕って、世界平和のための運動に力を入れるようになりました。 1953年、京都大学は湯川博士を日本に呼び戻しました。その後は母校で後進の指導に専念し、多くの優秀な物理学者を育てました。湯川博士は学生たちにこう言いました。「君たち全員に優の成績をあげるけれども、勉強は自分でしなさいよ」。1981年9月8日、湯川博士は世界中に惜しまれながら静かにこの世を去りました。 (国立科学博物館HP) |

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