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平成21年1月5日(月)昨日:渡辺喜美・元行革相「私にも覚悟が…」。 自民党の渡辺喜美・元行革相(栃木3区)は4日、那須塩原市などで開いた後援会の新年会で「離党してでも国民運動を起こしていく」と述べ、支持者らの前で離党も辞さない覚悟を示した。渡辺氏が、離党の意向を示したのは初めて。地元首長や後援会関係者らからは、支援の声があがった。 渡辺氏は「百年に一度の危機には、解散・総選挙を経て危機管理内閣を作るべき」と、改めて早期解散を求めた。第2次補正予算案に盛り込まれた定額給付金についても、非正規労働者らの失職が相次ぐ現状を反映していないと批判し、「一人一人に配るより、市町村で弱者対策をすればいろいろなアイデアが出る」と持論を展開。「これらが受け入れられない場合は私にも覚悟がある」と離党の決意を明言し、会場から大きな拍手が起こった。さらに、渡辺氏は「自民党を離れたからといって一人ぼっちになるわけではない」とし、地方自治体の首長や産業界の賛同者と連携していく考えを示した。 支持者らは、「いかなる時も代議士の決断を支持して支えていきたい」(後援会総連合会の臼井亮平会長)、「渡辺氏が国家国民のために行動する限り、全身全霊をかけて支援する」(千保一夫・大田原市長)と、一様に変わらぬ支援を強調。渡辺氏が離党した場合、県議会の自民党議員会に所属する渡辺氏支持議員は対応を迫られるが、後援会総連合会幹事長の阿久津憲二県議は「動きが決着するまでは静観」するよう、県議らに要望したことを明らかにした。 ※ 「静観」は愚策の最たるもの。大過なくとも「信」を失う。 ◇ 麻生太郎・現首相が会見で「お書き初め」、「安心? 活力??」 麻生太郎首相は4日の年頭記者会見の冒頭で、自ら筆を執って色紙に「安心」「活力」と書き初めをするパフォーマンスを見せた。昨年は頻繁な漢字誤読が指摘されただけに、今年は腕前に自信を持つ毛筆を新年早々から披露することで“失地回復”を狙ったようだ。(筆順は大丈夫かな?) おもむろに書き上げると、色紙を手に「強い決意で難局に立ち向かい国民の期待に応える。国民のために明るい日本をつくりたい」と強調しました。 ※ 人間誰しも、自分に無いものを願うもんです。今日から仕事始めの方々も、仕事を失った方々も、今日いち日を生きてゆくほかに、別に仔細は御座いません。 歳魂や危ふき国を救ひ給へ。 ◇ 漢字は今年も鬼門? 麻生首相、恥の書き初め? 年頭記者会見での麻生首相の書。廿(にじゅう)のあとに十が書かれている。麻生首相が4日の年頭記者会見で見せた「書き初め」の落款(らっかん)が話題になっている。落款は書画に添える筆者の署名で、色紙にあらかじめ「平成廿十一年新春 麻生太郎」と記されていた。国語辞典「大辞泉」などによると、「廿」は1文字で「二十」を意味し、「下の『十』は不要」だ。 自民党のホームページが元日付で掲載した首相の「年賀状」の日付も「平成廿十一年元旦」。1日にはインターネットで「『廿一』が正解ではないか」と指摘されていた。首相は昨年、漢字で痛い目にあっただけに、与党には「首相官邸のチェック体制はどうなっているのか」と深刻に受け止める向きもある。 1月5日は、村山富市首相、退陣表明の日です。 1996年1月5日、村山富市首相が退陣を表明。 自・社・さ政権協議にて、自民党総裁・橋本龍太郎を首班とする連立で合意。 11日に内閣総辞職、橋本連立内閣発足。 1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が日本社会党委員長に就任、村山は国会対策委員長に留任する。同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自由民主党は過半数を得られず、日本社会党も議席をほぼ半減させる。8月、日本社会党を含む8会派により非自民・連立政権の細川内閣が発足。山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明。後任には委員長代行・久保亘と村山が有力視されるが、久保は委員長選への立候補を辞退。9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に就任。村山は、書記長に久保亘を起用。 ◇ 突出した小沢一郎の政権構想、そして社会党の離反 1994年4月、細川護熙(もりひろ、現在は悠々自適の趣味人です。)内閣総理大臣が辞任を表明。連立与党は、次期首班に新生党党首・羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意、国会で羽田が首班に指名される。 しかし、不測の事態が起る。新生党、日本新党、民社党などが日本社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。この院内会派成立により、「改新」は連立与党内で日本社会党を大きく上回る最大勢力となる。村山はこれに強く反発して日本社会党の連立離脱を表明した。 羽田内閣は少数与党で発足することになり、戦後2番目の短命内閣に終わる。羽田政権下、社会党内では、久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。 6月25日、羽田内閣総辞職。日本社会党を巡り自由民主党、連立与党が協議を行う中、自由民主党総裁・河野洋平が日本社会党委員長首班の連立政権を打診し、新党さきがけを含めた自社さ共同政権構想に合意する。6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となる。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足。 ◇ 村山富市、総理大臣在任中 1994年7月、第130回国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言、日本社会党のそれまでの政策を転換した。 1995年1月、阪神・淡路大震災発生時、政府の対応が遅いと批判され、内閣支持率の急落につながる。3月には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こる。その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請。 6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決。 7月、第17回参議院議員通常選挙が行われた。この選挙は、非自民首相の大型国政選挙としては自民党結党以来初めて。この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らし、村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投、内閣改造を行った。 8月15日、『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話」(村山談話)を閣議決定。 1996年1月5日、首相退陣を表明。自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意。11日に内閣総辞職、橋本連立内閣発足。 ※ 手にとらでやはり野におけれんげ草 |

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