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平成21年2月6日(金)昨日:「渡り」退職金・報酬2億6900万円。 民主党の細野豪志氏は3日の衆院予算委員会で、元水産庁長官の農水省OBが退職後の6団体への天下りと「渡り」で、計2億6900万円以上の退職金や報酬を得ていたと指摘。元長官の天下り先の前任と後任のうち計11人も同省OBで、細野氏は「こういう『渡りルート』は氷山の一角」と政府に調査を要求した。 ◇ 大麻事件の元十両若麒麟容疑者、退職金を辞退 大麻取締法違反の疑いで逮捕され、日本相撲協会から解雇処分を受けた元十両・若麒麟真一容疑者(25)が5日、解雇に伴って協会から支給される退職金の受け取りを辞退することを決め、協会に文書で意向を伝えた。協会の規定では少なくとも約500万円が支給されることになっていた。 ※ これは、官尊民卑なんだろうか。それとも民尊官卑なんだろうか。 2月6日は、赤尾 敏の命日です。 ◇ 赤尾 敏(1899年〜1990年) 元・衆議院議員、右翼活動家、元・大日本愛国党総裁。 銀座数寄屋橋の辻説法による過激なアジテーションで名高い。 愛知県名古屋市東区生まれ。少年時代は病気がちで、旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。一時、親元を離れ祖父の土地があった三宅島に移住した赤尾は、そこで作家武者小路実篤が唱えていた「新しき村」運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。 農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた作家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎や大日本愛国党参与となる浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。 だが、仲間らと共に理想的社会主義社会を建設すると言う赤尾の夢は、島の有力者に農場を接収されるという形で儚い最期を遂げる。それでも社会主義への展望を棄てなかった赤尾は、旧制愛知第三中学卒業後、新たに東京の左翼運動に参加する。大杉栄や後の日本共産党書記長・徳田球一らの支援を受け熱心に活動したが、不幸にもその指導力を妬んだ仲間の裏切りにより逮捕されてしまう。それまで赤尾を慕っていた者たちが手のひらを返したように自分を批判するのを見て、赤尾は左翼運動に深く失望する、釈放後の1925年、赤尾は転向する。 1942年の翼賛選挙では、大政翼賛会の推薦を受けられない非推薦候補ながら、東京6区から出馬して3位当選を果たし、当選後は鳩山一郎、斎藤隆夫、中野正剛、笹川良一など他の非推薦議員と同様に翼賛政治会(翼政)に加入した。だが、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職する。続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした東條英機首相に対し、野次を飛ばして議場退場処分となり、翼政から除名され、議会からも譴責懲罰を下された。 赤尾は右であれ左であれ、筋目を通す男だった。その根底には反権力の思いがあった。それ故、右からも左からも嫌われた。 戦後の公職追放解除後の1951年、大日本愛国党を結成、総裁に就任する。1952年の総選挙に出馬するも落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、さまざまな選挙に立候補した。それは、選挙期間中の街頭演説が主な理由だった。彼は参議院不要論を唱え、参院選のたびに自分へも投票せず、皆棄権するように訴え続けた変わり者だった。 愛国党員だった山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では、取調べを受けた。赤尾は、個人的に交流のあった浅沼を評して「善人だから始末に悪い」と語っていた。 銀座数寄屋橋での辻説法は、当地の名物となり盛況を呈するようになる。彼は、昭和天皇の戦争責任を認め、天皇ですら国民のためにあると主張し、尊皇主義者からは嫌われた。 1990年2月6日午前9時26分、東京都立大塚病院で心不全のため逝去、享年91。生涯、気骨の男だった。 ※ 子供の頃、父に「赤尾 敏って、どう言う人なの?」と聞いた。父が説明しかけると、母が「そんなこと教えちゃダメッ!」と強く言ったことが印象に残った。 高校生の頃、数寄屋橋が都バスと都電との乗り換え地点だったので、しばしば辻説法を目にした。数寄屋橋交番のお巡りさんも熱心に聞いていたような気がした。 |

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