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平成21年2月14日(土)昨日:ボンバル機、住宅に墜落50人死亡、NY。 米ニューヨーク州バファロー近郊で12日午後10時20分(日本時間13日午後0時20分)ごろ、コンチネンタル航空の国内近距離便が民家に墜落炎上。 この事故で、乗客44人と乗員4人、非番の操縦士1人の全員と、巻き添えになった民家の住民1人の計50人が死亡。ほかに住民2人も負傷した。 墜落したのは、カナダ・ボンバルディア社製の双発旅客機DHC8―Q400型機(74人乗り)で、2007年3月に高知空港で胴体着陸した全日空機と同型。コルガン・エアー社(本社バージニア州)が所有、運航し、ニュージャージー州のニューアーク国際空港からバファロー・ナイアガラ国際空港に向かっていた。事故は到着予定の約5分前だった。 現場は、同空港から約10キロ手前の集落クラーレンスセンターで、13日朝になってもガソリンの異臭がたちこめていた。爆発音を聞いて現場に駆けつけ、事故機が炎上する様子をビデオカメラで撮影した大学生アンソニー・トリジリオさん(19)は「ものすごい炎が上がり、現場は大混乱だった」と話している。 事故当日の12日は、ニューヨーク州など米東部では強風注意報が出され、各地の空港でキャンセルや遅れが相次いでいたが、事故との関連は不明。AP通信によれば、事故当時、現場一帯はみぞれまじりの天候。 2月14日は、羽生善治、七冠達成の日です。(1996年) ◇ 羽生善治(1970年9月27日生まれ) 通算タイトル獲得数は大山康晴に次いで歴代2位。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持(永世名人・永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)。数々の実績から将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。二上達也九段門下、棋士番号は175。埼玉県所沢市生まれの東京都八王子市育ち。羽生と同世代の棋士にはトップクラスの実力者が多く、「羽生世代」と称される。 小学校一年生で将棋を覚え、二年生の頃から八王子将棋クラブに通う。その後、棋力は急速に向上し、小学三年のときに初段、四年で四段、五年で五段となり、アマ強豪のレベルとなる。関東各地の子供将棋大会を総なめにする。この頃の子供将棋大会で森内俊之と知り合い、以来、ライバル関係となる。 小学生将棋名人戦で優勝後、奨励会入り。1年余で6級から初段に昇段するなど驚異的な速さで昇級・昇段を重ね、1985年12月18日、三段で13勝4敗を記録して、四段に昇段。加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士(プロ)となる。デビュー直後の1986年度、全棋士中1位の勝率(0.741)を記録、将棋大賞新人賞を受賞する。 ◇ 羽生の輝くスター性、大山、加藤、谷川、中原をなで斬りのNHK杯 羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦だった。大山康晴、加藤一二三、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下しての優勝。シナリオを書いたかのような舞台設定であり、これで多くの将棋ファンに羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。 同年度は対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝)した。4部門独占は、その後も他の棋士が達成していない大記録であり、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞。無冠の棋士が受賞したのも、史上初であった。 ◇ 1989年、19歳2か月で初タイトル(竜王)獲得 1989年、タイトル戦初登場となる第2期竜王戦で初代竜王島朗から奪取、史上最年少タイトル記録(当時)となる19歳2か月で竜王位に就く。この年度は、先手番での勝率が9割を超えた。翌年11月に谷川に敗れ、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、3か月後の1991年2月の棋王戦で南芳一から3-0でタイトルを奪取、それ以降は無冠となったことがなく、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王戦挑戦時の六段が最後となる。 ◇ 七冠への道、それは破竹の勢い 1992年度、福崎文吾から王座を奪取、長い王座戦連覇が始まる。竜王にも復位し、自身初の三冠となる。1993年度、棋聖、王位を奪取し五冠となるが、竜王を佐藤康光に奪われ四冠に後退。 1994年度には、前年に史上最年長名人の記録を達成した米長邦雄から、名人位を奪取、さらに竜王を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、王将ただ一つとなったが、王将リーグでは5勝1敗で郷田真隆と並び、プレーオフで王将挑戦権を獲得、1995年1月からの第44期王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑んだ。 王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では、3-0のストレート勝ちで早々と防衛を決めていた。 遂に迎えた王将戦最終第7局(1995年3月23〜24日)であったが、千日手指し直しの末に敗退。谷川によって、史上初の全冠制覇を目前で阻止される。この第7局の2日目当日は、対局場である青森県・奥入瀬のホテルに、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。対局終了後、カメラや質問が主に敗者に向けられたというのも、異例のことであった。 だがそれから1年間、羽生は全てのタイトルを防衛した。さらに、第45期王将リーグも5勝1敗の1位で抜けて、谷川王将に2年連続で挑戦することになる。 そして、「遂にその時が参りました」、1996年2月14日、なんと4-0のストレートで王将を奪取、七冠独占の偉業を成し遂げました。タイトルが7つになってからの全冠制覇は史上初の快挙だった。 終局直後に生中継によるニュース速報が流され、翌日の新聞の一面を飾るなど、棋界のみにとどまらず社会全体で大々的に採り上げられました。直後に棋王戦防衛にも成功したので、年度の全7タイトル制覇も達成した。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯、早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも年度勝率は、タイトル戦続きで強豪との対局がほとんどであったにもかかわらず0.8364(歴代2位)という驚異的な数字だった。 七冠王として迎えた新年度(1996年度)の最初のタイトル戦は、小学生時代からのライバル・森内俊之との初のタイトル戦となる名人戦であった。この七番勝負は4-1で防衛に成功。次の防衛戦は、2年連続で三浦弘行を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いの末、三浦に2-3で敗れ、全冠独占は167日(1996年2月14日〜7月30日)で幕を降ろした。
※ 「ハブ睨み」
プロデビューして間もない頃は、上目で相手を睨みつける(ように見えた)「ハブ睨み」が相手を恐れさせたと言われる。羽生によれば、意識して相手を睨み付けた事はないと語っている。 ◇ 七冠後の棋道、スランプを潜り抜けた成熟の棋風 三浦から棋聖位を奪われた同年の第9期竜王戦と、翌1997年第55期名人戦の二つのタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ四冠に後退。 2003年度の竜王戦、王将戦、そして2004年の名人戦で、いずれも森内俊之に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人資格獲得を逸するばかりか、羽生のタイトルは王座の一冠のみとなった。羽生が一冠のみとなるのは11年9か月ぶりのことであった。 棋界の構図は、森内竜王名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位棋王、佐藤康光棋聖、羽生王座となり、羽生は棋界最強の座を奪われただけでなく無冠の危機すら迎えたのだった。 しかし、2004年度中に王位を奪還、王座一冠の時期は89日で終わる。さらに同年度中に王将、棋王をも奪還し四冠となった。2007年12月20日、最年少、最速、最高勝率で史上8人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成する。 2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人の資格を得るとともに、史上初の、いわゆる「永世六冠」(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成する。 2008年12月17日〜18日に渡辺明と対戦した第21期竜王戦七番勝負第7局(山形県天童市)は、どちらが勝っても初代永世竜王誕生となる戦いとして注目を集めたが、惜しくも竜王位奪取と一気の「永世七冠」達成とはならなかった。この七番勝負は、実に羽生の3連勝4連敗であったが、これは将棋史上初の珍事であった。 1996年3月28日、畠田理恵と挙式。二人の娘の父親である。 ◇ バレンタイン、義理チョコ無しの土曜なり |

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