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平成21年4月7日(火)昨日:北朝鮮、米中露に発射を事前通報。 北朝鮮は弾道ミサイル「テポドン2」の改良型とみられる機体の打ち上げについて、米中露3ヶ国に事前通報していた。韓国の情報機関、国家情報院が6日朝、国会情報委員会関係者との懇談会で説明した。 通報の具体的な時間や内容は明らかになっていないが、北朝鮮はおおよその発射時間帯を3ヶカ国に伝えた模様。米国を通じ、韓国にもこの情報が伝えられたため、李明博大統領は5日午前に国家安全保障会議を招集したという。 北朝鮮はオバマ米政権との対話には積極的とされる一方、中露両国は「人工衛星であれば、国連安保理決議違反に問うのは難しい」との考えとみられる。3ヶ国に事前通報することで、今後の交渉を有利に運びたい意図があった可能性がある。 ※ 非核三原則の日本は、いつでも蚊帳の外。 4月7日は、放哉忌です。 尾崎放哉(1885年〜1926年、本名:秀雄、鳥取生まれ) 1902年、一高文科に入学、一級上に荻原井泉水。1903年5月、藤村操が日光華厳の滝に身を投ず。1911年、東洋生命保険株式会社に就職。井泉水「層雲」創刊。1921年、契約課課長を罷免される。この年の暮れ頃、東洋生命保険を退職。1922年4月、新創設の朝鮮火災海上保険に支配人として朝鮮に赴任。10月、肋膜炎を発病。1923年6月、禁酒の約束を違えた理由で罷免される。満州に赴き再起を期すも肋膜炎悪化のため入院、手記「無量寿仏」を口述筆記する。9月に関東大震災の報を聞き、10月帰国、妻と別居し11月23日、西田天香の一燈園へ。 放哉は一高・東大とエリートコースをたどり保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後、漂泊の旅を続け、大正12年、京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後、京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とする間、膨大な俳句を詠み才能を開花させる。 大正14年8月、死に場所として小豆島へ渡り、西光寺奥の院・南郷庵(みなんごあん)の庵主となる。在庵わずかに8ヶ月、その間病苦に苛まれながらも三千句に近い句作に励み、翌年4月、孤独裡に生涯を終えた(死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル)。亨年四十二、大空放哉居士、墓は庵近くの共同墓地にあり。記念館は平成6年、当時の南郷庵を復元したもの。 ◇ 手記「無量寿仏」 自分が今死ねば一寸、尾崎家の血統がたえる形になる。それでふと思ひ付たのは、自分の最も幼なかつた時の、いろいろの断続的の記憶を本として、自分の生ひ立ちと、周囲の様々の出来事を、たんねんに書き留て置く事は最も必要だといふ事に気が付いたため、早速筆を取る事にする。 記憶をたどりたどり書く事だから、ドンナ物が出来るか、自分でも分らん。一つ云はねばならぬ事がある.長春に来て四五日すると左側肋膜炎になって床に付く事に成った。昨年の十月頃、京城でも一週間ほどやつたのだから、どうも気候の不順の処には自分の様な体は生活出来ないらしい。医者からは、絶対静養といふので、ひっくり返って天井を脱んで居る許り、腰の骨はいたし、なかなか楽しかない。そこで一言したいのは、昔から病気で寝ると大抵哲学上の本を読んだ。 是は、明治三十九年、一高の寄宿舎に入いった以来実行して来た事で、西洋人の哲学書は、最近の物まで、残らず読んで見たけれども、例に依り浅薄、論ずるに足らず、何んとしても「老子」等の東洋哲学を研究し、喰み返すのが落ちである。 処が大学を出、転々としてゐる内に、哲学では、とても救はれぬ事が分り、鎌倉の円覚寺に宗教によって安心を得様と、始めた「此お寺には、学生時代にも来た事がある」なぜ禅宗に依って安心を得ようとしたかといふに御承知の通り、禅宗は自力宗であって天上天下唯一人貴しとし、自分がすなはちシャカである。自分がすなはちアミダであると云ふ男らしい大信念に共鳴したのであったが、禅宗のお経本を色々読んだリ見たり、公案を考へたりして居る内に、禅宗に依って安心立命を得るといふ事は、非常に困難な事であると云ふ事が分って来た。 自分、すなはち仏なり云ふ事の安定を得る事は、凡夫としてなかなかむっかしいといふ事が分って来た。自分は非常に迷った。ここにおいて、自分は改めて、自分の無き内に、佐々木清呂氏に敬意を表したいと思ふ.内に対してはしばしば其法語に接し、今回、どうやら浄土宗一方を信心して、それのみにて渡世を送る気になリたる点において、右申せし如く、一時全く途方に暮れたる形なリしもたまたま佐々木氏の著「極楽より帰リて」及「親鴬研究並に真宗研究」等の著書を見るに及び、翻然として、自力宗より、浄土の他力宗に転ずる事になれリ。理由は簡単にして、我々凡人にては、到底安心立命出釆ざるが故に非常なる難業、苦業の結果、悟リを開き人すなはち仏の恩にすがリて、安心立命さして貰ふのなリ。されば、仏の残し給ひし教への経本をよく守り、煩悩を抑へ、仏に懺悔し、仏の救に、二六時中身をまかす。我身を一任する事なリ。 斯くの如き簡単なる安心立命の方法が、なぜ今迄気が付かなかったといふのは、一は哲学研究にふけリしため、二は自力宗に依つて安心せんとする我執ありしが為なり。 然も最後の念仏、信仰については、此度病気伏床中の収穫なリ。病、宣に感謝せざるべけんや、そも南無阿弥陀仏とは、印度語にして之れを訳すれば、帰命無量寿仏となり、すなはち、我命は帰する故、常に預ける、誰に預けるかといへば、無量寿仏、すなはち、其の仏の教へのままに暮して行けば、すなはち今世も、後世も安楽なので有ります。さういふ偉いお方で有から褒める言葉もない位だ。 けれども、毎日何事をするにつけても、我身の命を預けて下さる仏を、尊敬するため帰命無量寿仏、すなはち南無阿弥陀仏と唱へるのは、当然の事であります。否、此念仏のいへない人は、信仰がまだ不十分なので有ります。人が美しい花を見たときにああ綺麗だといふのは、念仏であります。念仏は必然的に出て来るものであります。自分は三十九歳になリ、妻は三十一歳になって居ます。これから、此念仏生活を死するまでの目的とする考で有ます。以上に止めて置きまして、最も古い記憶から、周囲の歴史を喚起して見ませう。 ※ 序文と称する部分のみで終わっています。
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
小豆島第五十八番札所西光寺奥の院「南郷庵 みなんごあん」に落ち着いて落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事 淋しいからだから爪がのび出す 釘箱の釘がみんな曲っている 一人分の米白々と洗ひあげたる
これでもう外に動かないでも死なれる
※ 散る桜ちりぢりさくらなほちりぬ咳をしても一人 とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた 自分をなくしてしまって探して居る 大晦日暮れた掛け取りも来てくれぬ 白々あけて来る生きていた いれものがない両手でうける 春の山のうしろから烟が出だした ◇ 戦艦大和の引き上げは是か非か(2009年1月30日) 造船の街・広島県呉市で、地元の商工会議所などが中心となって「戦艦大和引き上げ準備委員会」が初会合が開かれた。戦艦大和は、第二次世界大戦後期に呉市で建造された史上最大の戦艦。旧日本海軍が編成した連合艦隊の旗艦となった。1945年4月7日、米軍の攻撃を受けて沈没。現在は鹿児島県の坊ノ岬沖の海底に眠っている。 ※ 海底に眠る戦艦大和を引き揚げるには、膨大な費用を要するだろう。それによって何を得ようとするのか。決して沈まぬと言うことで「大和」の名を戴いた巨艦は、そのまま巨大な墓標として祀り、深い眠りを妨げるべきではない。 |

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