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平成21年4月8日(水)昨日:阪神支局襲撃事件、自称襲撃犯が手記否定? 朝日新聞阪神支局襲撃(1987年5月)など一連の本社襲撃事件の実行犯を名乗る島村征憲氏(65)の手記を週刊新潮が連載した問題で、同誌編集部は7日、島村氏本人が手記を否定するかのような趣旨の発言をしている、との書面を報道機関に送付した。同誌編集部は、今月16日に発売する23日号誌面で、手記の掲載に至った経緯を説明するとしている。 朝日新聞は、記事内容に真実性はないとして同誌編集部に3月、記事内容に関する質問書を2回にわたって送ったが、同誌はこれまで早川清編集長名で「小誌の見解はすでに誌面に掲載しております」と答えるにとどめていた。同誌は2月5日号から4回にわたり、「実名告白手記 私は朝日新聞『阪神支局』を襲撃した!」と題し、島村氏が一連の襲撃事件の実行犯だとする記事を連載した。 一方、朝日新聞記者は2006年に島村氏と面会しており、他の取材結果とも合わせて検証した結果、手記には事実と異なる点が数多く含まれ、真実性はないと判断した。また、手記の中で「犯行を指示した」とされた元米大使館職員の男性が朝日新聞の取材に対し、「事件当時は島村氏の存在すら知らなかった」と事件への関与を全面否定。この男性が同誌を発行した新潮社を訪れて抗議したのに対し、同社は3月19日、金銭を支払うことで男性と和解している。 ※ 出版不況と言われて既に余りにも久しい昨今、なりふり構わぬ脇稼ぎなのだとしたら、なんとも惨めで情けなく、かつて灰谷健次郎が自身の著作の版権を新潮社から全て引き揚げた心情も宜なるかなと思われる。 思えばその時も、神戸の別の事件がきっかけだった。 <中日4−3ヤクルト>(7日、神宮球場) 中日が開幕4連勝。立役者はダンゼン藤井。五回に3試合連続となる3号同点2ランを放ち、九回には1死二塁から決勝打を放った。ヤクルトは11安打を放ちながらも10残塁の拙攻。高田監督も「効率が悪い。もっと点を取ってくれれば勝てる試合。館山も良かったしね」と苦りきる。 中日・落合監督は、「こういう接戦をしようと思っているわけではないが、これからも多くなるだろう。みんな経験あるからね」と流れの悪いゲームを物にして御機嫌だった。 中日・藤井は、「ただただ、うれしい」と満面の笑み。本塁打は館山のカットボールをきれいに打ち返したが、決勝打はやや当たり損ね。それでも「(左翼線に)落ちると思った。打順のめぐりから見て、ぼくに(好機が)来るような気がしていた」と自分の強運を信じていた。今季は「7番・中堅」の定位置を開幕からキープし、早くも3本塁打。昨季までのプロ3年間の通算本塁打数に4試合で並んだ。落合監督が早くから期待していた打撃センスが、ようやく真価を発揮し始めた。(「Parsley, sage, rosemary and thyme,…」、災いのなからむ事を … ) ※ 谷繁(38)が途中退場。五回、大飛球(ファウル)を打って、打球の行方を見ながら一塁を踏んだ際、右足を痛めてしまった。かつての彦野のHR代走を想起させる厭なシーンだったが、さほど深刻ではないようだ。 4連勝はしているものの、中日らしい戦いぶりにはほど遠い内容が続いている。隠れがちなウイークポイントを修正できなければ、そのツケは小さくない。 <楽天6−0ソフトバンク>(7日、Kスタ宮城) 田中が差し出したウイニングボールを野村監督は体をかがめ拝むように両手で受け取った。「本当に楽に見物していた。やることなくて、マー君の投球に酔っていた。酔っぱらったかな」。報道陣の前でしばし開幕4連勝の余韻に浸った。(「Parsley, sage, rosemary and thyme,…」、災いのなからむ事を … ) ◇ 楽天の川岸、右肘故障で戦線離脱(7日) 楽天の川岸強投手(29)は7日、右ひじの故障で出場選手登録を抹消された。5日の日本ハム3回戦(札幌ドーム)に登板して違和感を覚え、仙台市の病院で「右腕上腕骨小頭部軟骨の損傷」と診断された。全治までの期間は不明で、一週間の投球禁止を指示されたという。川岸は今季、抑え役に指名され、2試合計3回3分の1を投げて無失点、1勝1セーブの成績だった。 4月8日は、高浜虚子忌です。 ◇ 高浜虚子(1874年〜1959年)(本名・高濱 清) 1888年、伊予尋常中学(現・愛媛県立松山東高校)に入学。一歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を学ぶ。1891年、子規より虚子の号を受ける。1893年、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)に進学。 この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く寝食を共にし、その下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。 1894年、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入、のち中退し、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込む。 1897年、柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。翌年、虚子がこれを引き継ぎ東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石なども寄稿している。子規の没した1902年、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。 1910年、神奈川県鎌倉市に移り住む。以来、亡くなるまでの50年をここで過ごす(戦争中、長野県小諸市に4年ほど疎開)。1913年、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰する。この時、碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句を詠んでいる。
春風や闘志抱きて丘に立つ
1954年、文化勲章受章。1959年4月8日、85歳で永眠。墓は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名、虚子庵高吟椿寿居士。生涯に20万句を超える句を残した。 ◇ 袂を分かった虚子と碧梧桐
子規は晩年、二人のことを気にかけていた。 「派を立てゝ己が根拠地を作る、といふやうになるのが憂ふべき現象であるか、又却って面白い結果を来たす事になるか、それはわからんけれども、ともあれ、虚子趣味の者はその陣中に集まり、碧梧桐趣味の者はその党派をつくるというようになるのであろう」と洩らしていた。
子規の没後、五七五の定形に捉われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、守旧派として碧梧桐と激しく対立した。そして1927年、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。 しかし、碧梧桐が亡くなった翌年の1937年には、かつての親友にしてライバルの死を悼む句を詠んでいる。 「ホトトギス」は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇と言えば「ホトトギス」であったといえる。虚子は俳壇に君臨する存在であり、多くの俳人を輩出した。飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかし、等々。
〔前書き〕「余と碧は、相睦み相争ひたり」
※ 虚子の生涯を通じての境涯を示す一句たとふれば独楽のはじける如くなり
去年今年貫く棒の如きもの
「楕円の中心 −虚子と碧梧桐− 」秋尾 敏「現代俳句」誌 平成7年1月号掲載の冒頭部分 虚子と碧梧桐は、縄のようによじれ合いながら時代の俳句を作り上げていく。そのとき、時間軸と交差する一方の軸は客観と主観を結ぶ方向にあり、もう一方の軸は写実と理想を結ぶ方向にある。二人を巡る多くの評論は、このような視座を前提として語られている。そのどこに焦点を当てるかという差異はあるにしても、依って立つ枠組みは変わらない。 だがそのような視座から、彼らの不動の特質を見抜くことはできないのではないか。それはいわば表層の、彼らの意識上の出来事だからである。そうである以上二人は、その存在を維持するためにくるくると立場を変え続けるだけの存在にしか見えないだろう。 主観と客観、あるいは写実と理想という概念が、句作の差異を語る言葉として用いられるのは、近代俳句の黎明期の作家たちがそのように語ったからであり、かつその方法が、いくばくかの複雑さと明晰さと混乱とを加えつつ受け継がれてきたからにほかならない。 もっとはっきりさせてしまえば、そのような伝統は子規が作り出したものである。子規以降のほとんどの俳人たちは、子規の作り出した俳句用語のパラダイムに乗って句作を語り合ってきた。だが、それらの概念がどのように有効であろうと、その歴史自体を、同じ概念で相対化することはできない。それは本来的にトートロジー(同語反復)である。私たちは、虚子や碧梧桐が意識し得なかった部分から、彼らの本質を語る新しい構造を見いださなくてはならない。 虚子と碧梧桐の生き方を追っていくとき、気になることが二つある。 ひとつは、二人の交友についてである。二人は、その主張を常に異なる立場に置きながら、終生その交際を断つことがなかった。 またひとつは、子規に対する態度の違いである。碧梧桐は、生涯子規を信奉し続けた。にも関わらず、その作品は子規の句風から大きくはずれていく。一方虚子は、子規の写生を継承したようでありながら、子規という人物への評価にどこか客観的なところがある。 二人は、どうも子規から、互いに補完し合うような世界を受け継いだようなのである。それはまったく異なる結果を生み出すのだが、しかし互いの存在を必要とするような関係に違いないのである。 ※ 俳句に派閥系列なし。況や感性においてをや。 ◇ 4月8日は『シンハービールの日』ですたい。 |

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