今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成21年4月15日(水)昨日:「痴漢」、防衛医大教授に最高裁が逆転無罪。

 東京都内の電車内で女子高生に痴漢をしたとして強制猥褻罪に問われ、1、2審で有罪とされた防衛医科大教授の名倉正博さん(63)(休職中)の上告審判決が14日、最高裁第3小法廷(田原睦夫裁判長)であった。同小法廷は「被告が犯行を行ったと断定するには合理的な疑いが残る」と述べ、懲役1年10月の実刑とした1、2審判決を破棄、無罪を言い渡し、名倉さんの逆転無罪が確定。最高裁が、2審の事実認定を覆し無罪を言い渡すのは珍しい。 判決は、「満員電車内の痴漢事件は、被害者の供述が唯一の証拠である場合が多く、被告が有効な防御をすることが難しいため、特に慎重な判断が求められる」と述べ、痴漢事件の審理のあり方に言及した。

 名倉さんは2006年4月18日午前8時頃、世田谷区内を走行中の小田急線の車内で、女子高生(当時17歳)の下着に手を入れるなどしたとして逮捕、起訴された。1審・東京地裁、2審・東京高裁は女子高生の供述を有罪の根拠とした。 小法廷は判決で、名倉さんが捜査段階から一貫して否認していることや物証がないことを指摘。 女子高生が途中駅でいったん下車したのに、車両を変えずに乗車し、再び被告のそばにいた点などを挙げ、「被害者の供述の信用性には疑問の余地がある」とした。裁判官3人の多数意見。堀籠幸男裁判官と田原裁判長は反対意見を述べた。

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 ※ 警察は“たかが痴漢行為”として、安易に被害者の供述のみを取り入れ、加害者とされた“もう一人の被害者”の主張を頭から拒絶する。まるでそうする事が正義であると妄信するかのように … 。名倉氏は“たかが痴漢行為”の為に、全精力を費やして警察の偏見と戦い、社会的地位を奪われながら、孤独な生活を忍従してきたと思われる。しかも真犯人は、何事もなかったかのように普段どおりの生活をしているのだ。 警察にとっては“たかが痴漢行為”ではあっても、一個人にとっては全人格を否定される程の、回復不能なダメージを受けるものなのだ。冤罪について、もっともっと真摯であって欲しいものだ。万が一にも無辜の者が罰せられてはならない。

 【参照】『それでもボクはやってない』(2007年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/27288481.html



 4月15日は、「ジャッキー・ロビンソンの日」です。

 1947年4月15日、メジャーリーグ史上初の黒人選手がデビューします。
 それが、ジャッキー・ロビンソンだった。今では当たり前のように黒人選手が活躍していますが、彼がその当時に人種差別の壁と戦っていなければ、バリー・ボンズやサミー・ソーサも、ハンク・アーロンもいなかったかも知れません。

 ニューヨークのブルックリンに本拠地を置いていたブルックリン・ドジャースに、ジャッキーは入団した。だが、黒人選手とは一緒にプレイ出来ないと、数人の白人選手がチームを去った。さらに相手チームとファンからも心無い野次が浴びせられ、対戦拒否されるなど人種差別は想像を絶するものでした。

 故意のスパイク行為でユニフォームが裂け流血した事もありますが、ジャッキーは常に紳士的な態度をとり、プレイそのもので周囲を黙らせました。世間もそんなジャッキーを徐々に認めていきます。1年目のシーズンは、2割9分7厘、12本塁打、29盗塁で、この年から制定された新人王に選ばれました。現在、新人王が「ジャッキー・ロビンソン賞」と言われる由縁です。

 忘れてならないのは、黒人メジャーリーガー誕生を決意した白人が居たということです。周囲の反対をよそに契約を推し進めたドジャースの当時のオーナー、ブランチ・リッキー。そして、オーナー会議で15対1で反対されながらも、ジャッキーがプレイする事にGOサインを出した当時のコミッショナー、ハッピー・チャンドラー。対戦拒否の場合は出場停止処分に処すと強硬な態度を貫いた当時のナショナルリーグ会長、フォード・フリック。彼らの勇気が「アメリカの自由」に魂を吹き込んだのです。

 1997年4月15日、ジャッキー・ロビンソンがデビューして50周年のこの日、ドジャース vs メッツのゲームで5回終了後、当時のアメリカ大統領、ビル・クリントンが記念式典で次のように語った。「全てのアメリカ人はジャッキーに感謝しよう。彼のおかげで、アメリカはより強く豊かな国になれた。次の世代の明るい未来のために、彼の遺産を大切にしていこう」。

 1962年に殿堂入りし、ジャッキーのつけていた背番号「42」は、ジャッキー・ロビンソンがデビューして50周年目の1997年4月15日に、メジャー全チームで永久欠番になりました。

 4月15日の「ジャッキー・ロビンソンの日」だけは、永久欠番の42番を付けることが許されており、多くのメジャーリーガーがリスペクトする為に42番を付けてプレーすることからも、ジャッキーの残した功績がいかに大きいかがうかがえます。

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 ◇ ジャッキー・ロビンゾンの生涯成績

 試合数=1382、安打数=1518、本塁打=137、打点=734、盗塁=197、打率= .311
 (現役=1947年〜1956年)、1962年に殿堂入り。

 ※ ジャッキー・ロビンソンの選手としての成績は歴史的なものではない。だが、彼が成し遂げた功績は、そんなものでは測れないほどの偉大なものだった。


 ◇ ブランチ・リッキー

 1942年、プルックリンドジャースのマネージャーに就任。彼は野球界における最もすぐれたマネージャーとして高い評価を受けていた。その後、ドジャースのGM兼会長になってから、彼は新しい黒人チームを作ると偽って全米にスカウトを派遣し、有望な黒人野球選手をリストアップさせる。(ニグロ・リーグなるものが存在した。)

 彼は黒人初のメジャーリーガーが受けるであろう嫌がらせや中傷、プレッシャーを予想していた。それらに耐えるだけの精神力を持ち、しかもメジャーで活躍できる実力が伴う選手をさがしていたのだ。それが、ジャッキー・ロビンソンだった。

 1945年8月28日、ロビンソンとリッキーは事務所で面談する。新チームの選手として呼ばれたと思っていたロビンソンに、リッキーは自分の真意を伝えた。黒人初のメジャーリーガーを探しているのだと。三時間にわたって二人は話し込んだ。リッキーは終始、忍耐力の必要を説いた。最後にロビンソンは、このように尋ねた。

 「ミスターリッキー、あなたは売られた喧嘩を買うのを恐れるような選手が欲しいのですか?」。それに対して、リッキーはこう答えるのだった。「私は売られた喧嘩を買おうとしないだけの勇気をもった選手が欲しいんだ」。

 ロビンソンは、この言葉を生涯忘れなかったという。ロビンソンは、こう答えた。「この冒険に賭けてくれるのでしたら、僕は何も揉め事を起こさないと約束できます」。

 リッキーは更に、ロビンソンを諭した。「これからの戦いは並大抵なことではない。我々には軍隊はない。それどころか、味方がないのも同然なんだ。オーナー、審判はもとより、新聞記者の中にも、我々の肩を持ってくれるものはほとんどいないだろう。多くのファンを敵に回す恐れもある。苦しい立ち場になることは間違いない。我々が勝利を得られるとすれば、君が偉大な野球人であると同時に、立派な紳士であるからこそ私がこんなことをするのだ、という点を世間に納得させられた時だけなのだ」。

 3Aの監督、クレイ・ホッパーはリッキーに泣きついた。「どうか止めてもらいたい。私は白人だし、生まれてからずっとミシシッピ−州に住んでいる。もしそんなことをしたら、ミシシッピ−から出て行かねばならなくなる」。

 ※ ミシシッピーは人種差別の激しい州で、『Mississippi Burning』と言う映画でも、その凄まじいばかりの偏見は目を覆うばかりです。

 しかし、ロビンソンは野球選手として無類の活躍を見せた。彼はシーズン最初の試合で五打数4安打、4得点、3打点、2盗塁で観客を沸かせた。遠征を終えて地元モントリオールに帰ってくるまでに12試合のうち10試合でヒットを打ち、17得点を挙げ、チームが首位を走るのに貢献したのだった。気がつけば、彼はモントリオールの人気選手になっていた。そして、マイナーリーグの覇者を決めるリトルワールドシリーズに駒を進めるのに多大な貢献をした。

 対戦チームのルイヴィル・カーネルズ側は、主催試合で黒人ファンの入場者制限を行った。ケンタッキー州ルイヴィルでは人種間の緊張が高まった。大きな騒動にはならなかったが、ルイヴィルでの試合はロビンソンにとって最悪なものになった。観客はロビンソンの一挙手一投足に憎しみのこもった野次を浴びせ掛けた。彼は3試合で1本のヒットしか打てず、ロイヤルズは1勝2敗と追い込まれてしまう。

 モントリオールのファンはロビンソンがルイヴィルで受けた仕打ちを聞いて激怒する。そしてシリーズがモントリオールにやってきた時、地元の試合でロビンソンを応援しようと大勢のファンが押し寄せた。そして、ルイヴィルのバッターが打席に立つたびに、観客は一斉に耳をつんざくほどの野次を浴びせた。

 ロビンソンは静かに語った。「この種の仕返しをいいとは思わない。でもああいう形でも、ファンが気持ちを表してくれたのは嬉しかった」。ロイヤルズは反撃を開始しチームは3連勝、シリーズに打ち勝ったのだった。 優勝を決めた後、観客はロビンソンの名前を叫びながらフィールドになだれ込み、ロビンソンを肩にかついでフィールドを一周した。モントリオールのスポーツ記者、サム・マーディンはその日の様子をこう語った。

 「白人の群集がリンチしようと思ってでなく、慕っているからこそ黒人を追いかけるのは、多分歴史上初めてのことだろう」。

 試合後、クレイ・ホッパー監督はロビンソンにこう言った。「君は素晴らしい選手だ、しかも立派な紳士だ。君がチームにいてくれて本当によかった」と。 1947年、ブランチ・リッキーはロビンソンをメジャーに昇格させることに決める。だが、ここでも、ロビンソンの前には人種差別の壁が立ちはだかるのだった。(次項に続く … )

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 【参照】4月15日、聖徳太子が『三経義琉』完成(615年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/31311187.html

 【参照】4月15日、レオナルド・ダ・ビンチの誕生日(1452年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/31310598.html

 【参照】4月15日、東京ディズニーランド開園(1983年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/41696864.html

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