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平成21年5月16日(土)昨日:「危険運転致死傷」適用、懲役20年、福岡高裁。 福岡市東区で2006年8月に起きた3児死亡飲酒運転追突事故で、危険運転致死傷罪と道交法違反(酒気帯び運転、ひき逃げ)に問われた元同市職員今林大(ふとし)被告(24)の控訴審判決が15日、福岡高裁であった。 1審・福岡地裁判決は脇見が原因として業務上過失致死傷罪などで懲役7年6月(求刑・懲役25年)としたが、陶山博生(すやまひろお)裁判長は「脇見ではなく、飲酒の影響で前方を認識できなかった」と指摘した。 ※ 警察側の現場検証での落ち度:呼気検査を怠る。泥酔運転 → 酒気帯び運転。 危険運転致死傷罪の適用は、正常な運転が困難なほど酔っていた状態が条件。控訴審では1審同様、同罪の適否が最大の焦点となっていた。 陶山裁判長は、今林被告の酒酔いの程度について「相当量の飲酒をし、事故当時、先行車を認識するために必要な目の機能にも影響が出る程度の危険な状態だった。飲酒により前方注視が困難で正常な運転が難しかった」と認定し、危険運転致死傷罪が成立すると判断。同罪と道交法違反との併合罪により懲役20年とした。 1審判決(2008年1月)は、被告が事故現場まで蛇行運転などをせず、事故後に警察官が酒気帯びとしたことなどを理由に、「飲酒の影響で正常な運転が困難な状態だったと認められない」と判断。被告が最大10秒以上も脇見した可能性を指摘し、事故原因は「脇見運転による過失」としていた。 控訴審で、検察側は現場をパトカーで走行して撮影した動画を提出。「道路は傾斜しており、前方を見てハンドルを調整しなければ走行できない」と脇見の可能性を否定した。 一方、弁護側は1審同様、飲酒の影響を否定して、「事故原因は脇見」と主張。「被害車両は居眠り運転だった」などと被害者の過失を改めて指摘し、刑の軽減を求めていた。 ◇ 父親「裁判長に気持ち伝わった」、母親「まだ納得できぬ」 元福岡市職員今林大被告に福岡高裁で懲役20年の実刑判決が言い渡された15日、大上哲央(あきお)さん・かおりさん夫妻は閉廷後、同市中央区の福岡県弁護士会館で記者会見した。 哲央さんは冒頭、「事故から2年9か月、毎日毎日苦しい生活を送ってきた」と振り返り、「今まで言い続けてきたことが裁判長に伝わった」と時折、言葉に詰まりながら話した。また、「3人も私たちと一緒に判決をしっかりと受け止めることができた」と亡くなった3人の子を思いやった。 危険運転致死傷罪が適用されたことについて、哲央さんは「自分たちの意見陳述を、しっかりと司法が受け止めてくれたと思う」と評価した。しかし、懲役25年の1審求刑に対し懲役20年の判決となったことに、かおりさんは「求めるものは25年。5年少ないことは納得できない」と不満を述べた。 今林被告は1審判決後、保釈中で、この日の法廷には姿を現さなかった。これについて、哲央さんは「3人の命はとても重く、今林被告の目で見てほしかった」と憤った。かおりさんは「この写真(遺影)を毎日見ることがどんなにつらいか。今林被告にも分かってほしいと思って、持ってきたのに……」と残念そうな表情を見せた。 判決を踏まえ、今林被告への言葉を求められると、哲央さんは「しっかりと刑を受け止めてほしい」と語った。かおりさんは「反省を求めてきたが、見られない。かける言葉はない」と切り捨てた。 ◇ 今林被告の弁護人「感情的な判決、上告したい」 福岡市での3児死亡飲酒運転追突事故で、今林大被告に福岡高裁で懲役20年の実刑判決が言い渡された15日、今林被告の主任弁護人、春山九州男(くすお)弁護士は「きわめて感情的な判決で、適用条文の要件を一つずつ積み重ねる作業に欠けている印象を持つ。到底納得できず、上告したい」と述べた。 量刑については「今林被告は『いかなる刑にも服する』と話していたが、懲役20年とは思っていなかったのではないか」と話した。 ◇ 「事実」とは、誰にも捉えがたいもの 判決は、危険運転の要件となる「正常な運転が困難な状態」とは、「現実に道路・交通状況に応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態にあることだ」として、一審と同じ判断の枠組みを維持。しかし、事故原因は脇見運転だったとする一審の事実認定を否定して、正反対の結論を導いた。 判決はまず、一審判決が事故原因を脇見運転とした点について検討。現場の道路が左側が下がっていることから、直進するためには絶えずハンドルを右側に微調整する必要があり長い脇見は不可能だと指摘。事故原因を11.4〜12.7秒にわたる脇見とした一審判決の認定は誤っているとした。 その上で「被告は先行車の存在を間近に迫るまで認識できない状態にあり、道路と交通の状況などに応じた運転操作を行えなかった」と指摘。アルコールの影響で正常な運転が困難な状態で事故を起こしたとして、危険運転致死傷罪の成立を認めた。量刑の理由で陶山裁判長は「相当量の飲酒をしたうえ、一般道を時速約100キロで走行した行為は危険。結果は誠に重大で、厳しい被害感情ももっとも」などと述べた。 弁護側は、事故は被告、被害者ともに「不意打ち」だったと主張。被告の脇見運転だけでなく、被害者の居眠り運転や急ブレーキなどの過失が重なって被害が拡大したと訴え、無罪か大幅な減刑を求めていた。しかし判決は、道路の状況などから「(被害者側が)居眠り運転をしていたとは考えられない」と退けた。 一審の福岡地裁は、危険運転致死傷罪のほかに業務上過失致死傷罪を起訴罪名に追加するよう検察側に命令。2008年1月、業務上過失致死傷と道交法違反(ひき逃げ、酒気帯び運転)の組み合わせでは最高刑に当たる懲役7年6カ月を言い渡していた。 ※ 仮に“神の眼”が事故当時の状況を一部始終撮影していたとしても、その「事実」の認定については意見が分かれるものと思われる。「事実」が一つであっても、その意味は多岐にわたるであろう。あるいは、「事実」は必ずしも一つではないかも知れぬ。「事実」すら、人の想念が造り出す「幻影」であるかも知れないのだ。 ※ 21日から始まる裁判員制度は、一体どのようなスタートをきるのであろうか。誰もが明快には説明し得ぬ、裁判員制度発足の意義。もしも過去の判例に厳格に従わせるならば、裁判員制度は茶番であり、一審の“脚きり”と非難されるかも知れない。だが、過去の判例を大きく逸脱すれば、法の下の公正を欠くことになる。 ※ 裁判員制度とは、我々に自分自身の生き方を鋭く問いかけてくるものだ。人が人を裁くという苦渋を、法曹界から一般社会へと解き放つ裁判員制度は、否応無しに我々に自己との真摯なる対決を迫ってくる。 曰く、「あなたならどうする?」。 1953年5月16日、NHKが大相撲TV中継を開始しました。 NHKは1948年6月、戦後初めてのテレビの公開実験を行い、1950年2月にはテレビ実験局を開設して、11月からは毎週1日3時間の定期的な実験電波を発射した。 1953年2月1日、テレビの本放送を開始した。 NHKが実験に着手して23年、高柳健次郎が研究をはじめてほぼ30年が経過していた。 本放送開始当日の受信契約数は866件、うち都内の契約が664件。その内の482件がアマチュアによる自作の受像機であったと言う。何ともマニアックなテレビ黎明期であった。 大相撲は昭和27年(1952年)秋場所から、土俵上の屋根を支えていた四隅の柱を取り除き、吊り屋根式にしました。このためテレビ観戦でも充分楽しめる環境が整いました。そして、1953年5月16日、大相撲のテレビ中継を始まりました。 茶の間で見るファンが増えれば、会場に足を運ぶ人が減るとの意見もありましたが、視聴率の伸びと共に観客数は減るどころか逆に増加しました。こうした人気に目をつけた民放各局も大相撲の生中継を始めたため、どのチャンネルを回しても相撲を放送しているという時期がありました。わが国初の中継カラー放送も大相撲でした。 ※ 民放各局が競って大相撲中継をしていたなんて、今では信じがたいことですが、私が小学生の頃は正にそのようでした。「国技」と言う言葉が違和感なく受け入れられる時代でした。その後、大相撲人気は凋落して民放各局は撤退します。一時期、NHKすら撤退を視野に検討した時期がありました。相撲協会はNHKに泣きつきました、「頼むさかい、見捨てんといて … 」。そこで、NHKが出した条件が「独占中継」。若サマ・貴サマ人気の折には、民放は指を咥えて眺めているばかりでした。時は過ぎ … 、今また大相撲人気は絶不調、野球中継同様に放送時間は短縮するようです。 日の本に、日は没するばかり大相撲(涙)。 5月16日は、「透谷忌」です(1894年)。 『楚囚之詩』を記し、島崎藤村らと雑誌『文学界』を創刊した明治期の詩人 北村透谷の命日。享年26歳。彼が生まれた小田原には、顕彰碑がある。 |

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