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平成21年7月3日(金)昨日:「ぼくが行ったら負けぬ」「次の知事は傀儡」。 宮崎県の東国原英夫知事は1日、高千穂町で開かれた県民フォーラムに出席し、改めて国政転身への意欲を示した。地域の課題について住民と意見交換する場だったが、出席した約50人の町民の関心も知事の出処進退に及び、知事が自らの「後継者」に触れる一幕もあった。 「一介の知事がいきなり大臣とか首相候補に指名されるなんてありえない。でも歴史を変えなくてはならない」「国政に行きたいのではない。国を変えたい、制度を変えたい」「たった一人の反乱だと思っている。5年後10年後、こういうチャンスが来るかはわからない」。 東国原知事は冒頭の挨拶で、得意の地方分権論を披瀝し、国の制度を変える必要性を熱く語った。さらに、自民党サイドからの次期衆院選への出馬要請に対する受諾条件に、自身を総裁候補にすることなどを挙げている点に関連し、「民主党は次期代表に私を選ばないでしょう。自民党総裁になる方が可能性は民主党より高い」などと話した。 会場の出席者からは、次の衆院選をめぐる知事の動向に関する質問が相次いだ。ある男性は「自民党が負ける可能性も言われている中で、なんで自民党なのか」と質問。知事は「良い質問ですねー、ぼくが行ったら負けません。負けさせません」と自信満々だ。 また、任期途中で国政に転じた場合の後継者に質問が及ぶと、知事は「責任を持って議会、職員や県民の皆様のご意見をうかがって、私の考え、やり方を一番分かる、一番継承出来る方にお願いする。それがぼくの責任」と後継指名の可能性も示唆した。 さらに、「1週間に1回は帰ってきて『これはこのようにして』と口出しする。事実上の知事は僕だから、次に知事になる方は傀儡政権ですね」。冗談とも本気とも取れる口調で続けた。2年半前の県知事選に出たときのことを振り返り、「あの時、今変えないと宮崎は変わらないと思った。あの時みたいに、今勝負をしないと歴史は変わらない」と高揚した様子で力説し、フォーラムは知事の独壇場だった。 ※ 東国原英夫という男、どこまでも野心家の人と見える。県知事では満足できず、華々しく国政にデビューしたいばかりなのか。それにしても、次期県知事が傀儡とは、大胆なことをしらっと言ったもんだ。この男の言葉は、一切空虚であると、底が割れた気がする。 7月3日は、加藤楸邨忌です。 ◇ 加藤楸邨(1905年5月26日〜1993年7月3日) 本名は加藤健雄、俳人、国文学者。妻は俳人の加藤知世子。 東京市北千束に生まれる。1923年、金沢一中を卒業後、石川県松任町立松任小学校に代用教員として2年間奉職。この頃はアララギ派や石川啄木など短歌に関心を抱く。1929年、埼玉県立粕壁中学校(現・県立春日部高等学校)の教員となる。同年、矢野チヨセ(後の加藤知世子)と結婚。 1931年、粕壁中学の同僚の勧めで俳句を始める。水原秋桜子の主宰する『馬酔木』に投句、秋桜子に師事する。1935年(昭和10年)馬酔木の同人となる。 1940年、東京府立第八中学校の教諭となる。俳誌『寒雷』を創刊し主宰となる。1942年、馬酔木を離脱。1944年、歌人の土屋文明らと中国に渡り戦地俳句を詠む。1946年8月、休刊していた『寒雷』を1年8ヶ月ぶりに復刊。戦地俳句を詠んだことで大本営への協力を批判された。1954年、青山学院女子短期大学の教授となり、1974年まで務めた。 「真実感合」 自己の生活や生き方を誠実に追求していく立場から、人間の内面を深く凝視する句作。社会的な存在としての自己を意識し、そこを表現の原点とした。楸邨は自身のこうした句作の姿勢を「真実感合」と称した。
鰯雲人に告ぐべきことならず (『寒雷』昭和14)
(戦争の足音が次第に高くなってきた頃の作) 火の奥に牡丹崩るるさまを見つ (昭和20年の空襲の実景を詠んだもの)
死ねば野分生きてゐしかば争へり
◇ 俳人はつらいよ(大本営報道部嘱託として、土屋文明らと共に大陸に渡り、多くの句を詠み、 戦争責任を草田男や俳壇内外から問われた頃の作) 昆虫のねむり死顔はかくありたし “俳人”とは、俳句を作り、それを“たつき”となす者? 今日、俳句人口は実に一千万人とも言われる。昭和40年〜50年代にかけて、あちこちでカルチャーセンターができ、俳句教室で学んだ多くの御婦人方が俳句をつくり始めた。俳人にとっては、お陰様で新たな収入源が出来た。俳人たちはカルチャーセンターの講師や俳句コンクールの選者、テレビ出演などに仕事の場を得た。しかし、そんな機会を得て俳句だけで生計を立てられるのは、全国紙の新聞の選者になっているような俳人らが中心である。 全国紙の選句料は地方紙や他の媒体に比べて高い。だがそれ以上に、全国紙の選者になることで名前が売れ、他の媒体や団体からの選者や指導、講演、出版などの依頼が増える点が大きいのだ。現代の俳人は、短冊を片手に優雅に花の下に立って生きていけるものではない。夥しい量の投句葉書に目を通し、世過ぎ身過ぎの講評をこなさねばならないのだ。 衆寡敵せず、一句17文字の「原稿料」では喰えない? 『俳句年鑑』に名を連ねる俳人は3800人に及ぶ。もとより、趣味で俳句を作っている方たちではない。それぞれに一家をなし、何冊かの句集を出し、選者として人に教えている方々である。そして彼らが所属する全国の結社・俳誌は、実に822誌を数える。 結社の会員数は、50〜100人未満が25%でトップ。100〜200人未満が17%で続き、会員数200人未満の結社が5割以上を占めると言う。会員の平均年齢は60歳代が群を抜いており、次いで50歳代、70歳代の順だとか。 最大かつ最も古い俳句結社は明治30年創刊の「ホトトギス」で、翌31年から高浜虚子が主宰し、昭和26年、虚子の長男・年尾が引き継ぎ、さらに昭和54年には年尾の娘・稲畑汀子が主宰となって現在に至っている。 虚子の次女・星野立子は「玉藻」を創刊・主宰し、彼女の死後は娘・星野椿が引き継いでいる。「ホトトギス」同様、俳句結社には世襲で引き継がれているケースが目立つ。 結社の主宰者が発行する月刊、隔月刊、あるいは季刊の俳誌には、主宰者や同人の句や文章、会員が投句し主宰者らが選んだ句、毎月開かれる句会の報告などが掲載される。会員は月平均千円ほどの会費を払って5句ほどを投句し、主宰者に選ばれた自分の句が載る俳誌を手にする。主宰者は俳誌発行のほかに、定期的に句会を開いて会員を教える。大組織になれば全国各地に支部があり、支部ごとの句会のほかに全国大会なども開かれる。会費と句会での指導料、さらに会員が句集をまとめる際の選句料、序文・跋文に対する謝礼などが、主宰者の収入となる。 小説家なら400字の原稿用紙1枚いくらで結構な原稿料が入るが、五七五1句で17文字。小説の原稿料とは別の計算をするにしてもたかが知れている。小説ほどの依頼もなく、句集をまとめても決してベストセラーにはならず、実情は自費出版に近い。自らが作る俳句が、俳人の生計を支えている訳ではない。結社からの収入は微々たるもので、選句料こそが俳人の“たつき”なのだった。 ※ 選句屋とわが名呼ばれむ初しぐれ 芭蕉風
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
◇ 代表句集
「寒雷」 昭和14年
【参照】5月26日、加藤楸邨の誕生日(1905年)「野哭」 昭和23年 「まぼろしの鹿」 昭和42年 「吹越」 昭和51年 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/42586692.html |

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