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平成21年8月25日(火)昨日:自民、戦々恐々。天敵・投票率アップ。 総務省は24日、衆院選の期日前投票の中間状況を発表した。公示翌日の19日から23日までに期日前投票を行った人は305万5634人で、2005年衆院選の投票日1週間前の時点(201万4072人)と比べて51.7%増加。有権者全体の2.9%が既に投票を済ませたことになる。 前回より大幅に増えた背景には、制度が定着してきたことに加え、政権選択が焦点となった今回選挙への関心の高さがあるとみられる。中間状況では全47都道府県で前回より増えており、増加率が最も高かったのは沖縄県の149.2%増。以下、山梨県85.9%増、長野県81.1%増と続いた。最も低かったのは宮崎県で7.1%増だった。 期日前投票制度は2003年12月に施行された。衆院選で実施されるのは2回目。前回の期日前投票者数は最終的に896万2847人で、今のペースで進むと、今回は最終的に約1360万人が足を運ぶ計算。 ※ これまで一度も棄権せず投票してきた。無意味な選挙の場合は、批判を書いて無効票を入れてきた。今まで何度、投票所に足を運んだのだろう。出口調査も二度ほど経験した。でも、今回ほど楽しみな選挙は、吾が生涯で最初で最後だろう。 後醍醐天皇(1288〜1339) 8月25日は、後醍醐天皇が東大寺東南院に行幸した日です。(1331年) 元弘元年(1331年)8月25日、元弘の変、後醍醐天皇東大寺東南院に行幸。 後嵯峨天皇の二人の皇子、後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)との、どちらの皇統に皇位を伝えるか、という問題は鎌倉幕府まで巻き込んだ末、両統迭立(てつりつ)、即ち両方の皇統を原則として交互に皇位につけるという妥協により運営されていた。 正安三年(1301年)、大覚寺統から即位された後二条天皇は延慶元年(1308年)、24歳の若さで崩御、皇統は持明院統の花園天皇に受け継がれたが、その皇太子として立てられたのは後二条の弟の尊治(たかはる)親王であった。彼は幼少の後二条天皇の皇子の成長までのつなぎ、としての存在でしかなく彼の子孫に皇位が伝えられる予定はなかった。 文保二年(1318年)即位された尊治親王(後醍醐天皇)はこれを不満としてそういった両統迭立なども含めた現体制すべてを破壊し、自らの子孫に皇位を伝えるため倒幕を企てる。 その最初の正中の変に続く二度目の倒幕計画が鎌倉幕府に漏れ、8月22日には幕府の使者が大軍を率いて上洛。24日になって、その使者の目的が後醍醐天皇の配流と大塔宮(おおとうのみや)の死罪にあると知った宮の急報を受け、同日夜、後醍醐天皇は中宮が実家に帰るのを装って宮中を脱出、南都の東大寺・興福寺の僧兵を頼るべく、この日、東大寺東南院に入られた。 しかし、東大寺の子院の中には幕府に心を寄せるものもあったため南都の協力を得ることは出来ず、翌日、鷲峯山金胎寺(じゅぶせんこんたいじ、京都府相楽郡)に入られた。しかしここは余りにも不便であったためさらに27日になって笠置山(京都府相楽郡)に移られた。(太平記巻二・天下怪異事) 後醍醐天皇御腰掛岩(鳥取県大山町、旧・名和町) 元弘の変により配流の身となられた後醍醐天皇が、隠岐島を脱出し御来屋海岸に御着船になった折、この大岩にしばらく御腰掛けになったと伝えられています。 <交通> 山陰本線御来屋駅より徒歩で約15分。 御腰掛岩の右手に、後醍醐天皇御製の碑があります。碑文に曰く、わすれめやよるべも波のあら磯を御船の上にとめし心を、とあります。 ◇ 名和神社(鳥取県西伯郡大山町、旧社格は別格官幣社) 名和神社は建武中興十五社の一社。建武の忠臣名和長年公はじめ、一族四十二名をまつる神社。元弘三年(1332年)、長年公は隠岐島に流されていた後醍醐天皇の脱出を助け、天皇を船上山に迎え鎌倉幕府軍を破った。 後醍醐天皇はこの年、鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活(建武の新政)、長年公はこの新政権で重用された。 現在の社殿は昭和十年に完成。建築界の重鎮・伊藤忠太の指導のもと、明治神宮を造営した角南(すなみ)隆が手がけた。本殿から日本海を望むと、海を越え一直線上に後醍醐天皇隠岐行在所がある。また、境内は名和公の米倉があった所で、合戦の折りこれを焼き払ったため、神社の裏からは今でも焼き米が出土する。 正中の変 天皇独裁による日本の全国支配を目指す後醍醐帝にとって、東国を中心に大きな勢力を誇り、天皇の即位にすら大きな発言権を持つ鎌倉幕府との対立は不可避のものとなる。 帝は無礼講と呼ばれる大宴会を連日開き、それにかこつけて日野俊基、資基、武士の土岐頼貞、多治見国長らと語い、討幕の計画を練った。正中元年(1324年)、無礼講に参加していた武士の一人、土岐頼員の寝返りにより討幕計画が発覚。計画の中心メンバーであった日野俊基、資基は捕縛、土岐頼貞、多治見国長は斬罪に処せられる。これを「正中の変」と呼ぶ。 鎌倉幕府の詮議は、首謀者たる後醍醐帝にも伸びたが、帝は弁明のために鎌倉に万里小路宣房を勅使として遣わし、幕府の慰撫に努めた。天皇が武家に告文を出すのは前代未聞の出来事であった。朝廷と共に弱体化の傾向にあった幕府は、帝との全面対決は得策でないと判断、帝の弁明を受け入れて、日野資基を佐渡に配流するのみの穏便な処置にとどめる。 元弘の変 しかし、帝は尚も息子の護良親王を比叡山延暦寺の座主に据え、東大寺、興福寺との連携を強め、僧兵達を戦力として動員出来るように画策。更に律僧・文観を交渉者として、河内の土豪・楠木正成、幕府要人の伊賀兼光らを味方に引き入れる。 一方で、米価、酒価の公定、関所の廃止を行い、商工業者の支持を得、日野俊基を各地に派遣して悪党海賊、反北条派の武士の調略を行った。 討幕に向けて周到な計画が練られたが、元弘元年(1331年)、幕府を恐れる帝の側近、吉田定房によって密告され、計画は再び瓦解。吉田定房は、事態が深みに嵌る前に計画を発覚させて、正中の変のような穏便な処置を幕府に期待した。しかし、幕府は今回はこれを許さず、日野俊基らを捕縛、鎌倉へ移送、次に帝の処置を検討する。 追いつめられた後醍醐帝は笠置にて挙兵、楠木正成も河内赤坂城にてこれに呼応。しかし、頼みの延暦寺が幕府側につき、護良親王らは比叡山を脱出する羽目に追い込まれる。楠木の赤坂城も幕府軍の攻勢の前に落城、笠置の帝も捕らえられる。これを「元弘の変」と呼ぶ。 隠岐配流から伯耆(ほうき)船上山での再決起 幕府は後醍醐帝を退位させ、承久の乱の故事に倣い隠岐へ配流し、持明院統の量仁親王を立てて光厳天皇となした。後醍醐帝の各皇子も配流され、日野俊基、資基は斬罪に処せられた。承久の乱の首謀者・後鳥羽上皇は、隠岐へ配流された後は意気消沈し世捨て人として、失意の余生を送ったが、後醍醐帝は不屈の闘志を持ち、配流で挫けることがなかった。 幕府の強硬な処置は反幕府の気運を一気に高め、畿内周辺にて幕府方六波羅探題に対する反乱が頻発した。幕府の追討を逃れた護良親王は吉野山で挙兵、各地の悪党、海賊、反北条派の武士に討幕の綸旨をしきりに飛ばす。楠木正成も千早城を建てて反幕府軍の拠点とし抵抗を続け、播磨では佐用荘地頭職・赤松則村が護良親王の綸旨に呼応して、京に攻め入る大戦果をあげた。こうした状況の中、後醍醐帝は隠岐の脱出に成功し、伯耆(鳥取県西伯郡)の豪商・名和長年に迎えられて船上山に拠り、討幕の綸旨を各地に発し、鎌倉幕府と対決する姿勢を鮮明にする。 |

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