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平成21年9月3日(木)昨日:「ポスト麻生」本命なし 石原氏も「白紙」。 「ポスト麻生」を決める自民党総裁選(18日告示・28日投開票)の行方が、混沌としてきた。 舛添厚生労働相が2日、不出馬を正式表明するなど、党内で名前が挙がっている「有力候補」が軒並み尻込みしているため。視界不良の状況は、野党に転落した党再建の道のりの険しさを反映する。 党内には、舛添氏以外にも、過去の総裁選に出馬経験のある石破農相、石原伸晃幹事長代理、谷垣禎一・元財務相を推す声がある。 石破農相は衆院選直後、「火中の栗を拾わないことはない」と出馬に意欲をにじませたが、ここに来て「出るとも言わないし、出ないとも言わない」と、やや後退。石原氏も「全くの白紙」と繰り返す。 有力候補が様子見の態度を取るのは、4日の全国幹事長会議、8日の両院議員総会の動向を見極めたいとの思いがあるため。二つの会議では、衆院選の総括や党再建に関して議論が百出することが予想され、「党内の議論を踏まえずに名乗りを上げれば、つぶされかねない」という危惧がある。 一方では、立候補に必要な推薦人集めの問題がある。衆院選の惨敗で、国会議員票は200(山東昭子参院副議長を除く)(衆院119票、参院81票)に激減したため、立候補に必要な20人の推薦人確保のハードルは、これまでになく高くなっている。所属する派閥頼みで推薦人を集めれば、「自民党は何も変わっていない」との批判を招きかねない。しかも、参院の占める割合が高まり、参院側の支持の見通しが立たないまま、「見切り発車」はできないという事情もある。有力候補の一人は、「参院の実力者、青木幹雄・前参院議員会長の意向は無視できない」と語る。 新総裁には、10月25日の参院神奈川、静岡の両補欠選挙、来年夏の参院選が待ち受ける。敗北すれば責任を取らされる可能性もあり、「誰も貧乏くじを引きたくない」との指摘は多い。 一方では、当選2、3回の議員からは、世代交代に向け、「若手候補」擁立の動きもある。当選2回の平将明衆院議員は、「全く新しい『新生自民党』として再出発できる人を選ばないといけない」と強調。若手議員らは2日夜、都内の料理屋( not 料亭)で会合を開き、対応を協議した。 ※ 議員のランク付け:A=小選挙区当選、B=単独比例当選、C=比例復活。 このようなランク付けが議員連中の中に存在する。つまり、Cランクの野田聖子(小選挙区落選)には立候補資格すら無い。 かつて自民衰退期に、自民に有利な選挙制度を作り上げたのだが、諸刃の剣となったようだ。小選挙区ならではの、ドラスティックな展開となった。 ◇ 火事場泥! 農水前次官が政権発足前に「駆け込み」天下り 農林水産省の白須敏朗前次官(58)さまが2日、同省が所管する社団法人「大日本水産会」の会長にめでたく就任されました。 官僚の天下り斡旋の全面禁止を主張する民主党政権の発足をにらんだ「駆け込み人事」として、批判を承知の上での火事場泥棒で、名を捨て実をとる形。 ※ 前次官、捨てても惜しい名でもなし。 しかも、白須氏は昨年9月、残留農薬などに汚染された事故米が食用に転用されていた問題の責任を取って農水次官を辞任した御仁。農水省によると、大日本水産会が1日開いた臨時総会と理事会で、中須勇雄会長(元水産庁長官)の後任に白須氏が就任することが決まった。農水省秘書課は「省として、斡旋はしていない」と話しています。 ※ 斡旋など、もとより無用、阿吽の仲。 9月3日は、奥州藤原氏が滅亡した日です。(1189年) 1189年、源頼朝は28万の大軍を率いて奥州平泉に侵攻。二月足らずの間に、 藤原泰衡は敗走。途中、家臣の河田次郎に殺され、奥州藤原氏は滅亡する。 ◇ 奥州藤原氏三代の栄華 「前九年の役」「後三年の役」の戦いを経て、藤原清衡は、安倍一族の血を引いて信望があったことを背景に陸奥押領使となり、奥六郡を支配。後に江刺郡の豊田館から平泉へ進出し、更に南下の勢いを見せた。関白家と庇護関係を結んで藤原姓を名乗り、栄華を極める奥州藤原三代黄金文化の礎を築く。長治2年(1105年)中尊寺一山の造営に着手し、21年の歳月を掛けて完成。金色堂は天治元年(1124年)、69歳の時に完成する。その4年後の大治3年(1128年)7月17日、73歳で生涯を閉じる。金色堂中央の須弥壇の中には、清衡、基衡、秀衡の遺骸、そして、泰衡の首級が納められている。 藤原基衡は、陸奥押領使となり、勢力を福島県下まで拡大。性格は剛毅、果断と評され、中央の藤原氏と荘園問題で争ったこともある。大伽藍毛越寺を建立。中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇」(吾妻鏡)だったのに対し、毛越寺は、四十余宇、禅坊五百余宇に及んだといわれ、発掘調査の結果からも、中尊寺をはるかに凌ぐものだったことが裏付けられました。死亡年代は通説で保元2年(1157年)とされ、遺骸の調査結果から、50〜60歳くらいで没したと見られる。 藤原秀衡は、「吾妻鏡」によれば、嘉応2年(1170年)5月25日鎮守府将軍に任ぜられ、養和元年(1181年)8月25日に陸奥守になった。白河以北を完全に支配する。国府は多賀城にあったが、実質、平泉が陸奥国の行政の中心だった。源義経を少年時代と都落ちの際の二度にわたり庇護するが、文治3年(1187年)10月29日、義経の行く末を案じながら急逝する。 「伊予守義顕(義経)ヲ大将軍トナシ国務セシムベキ由、泰衡以下ニ遺言セシム」(吾妻鏡)と伝えられる。没年は不明だが、70歳前後と見られる。後の世に、「北方の王者」と称せられる。 ◇ 秀衡はなぜ義経を庇護したか? 秀衡は、兄・頼朝と対立した義経を憐れと思ってかくまった訳ではない。奥州に独立政権を作るためのシンボルとして迎え入れた。そこには平泉の命運を義経に託す政治的決断があったと思われる。地方の豪族が、源氏や平氏などの「貴種」を擁立して独立政権を樹立する志向性は、12世紀末の内乱期に最高潮に達したと見られる。地方豪族同士の天下取りゲームの頂点を最後まで争ったのが、奥州藤原氏を背景にした義経と、北条氏の支援を受けた頼朝だった。 ◇ 頼朝にとって、渡りに舟の義経の奥州亡命 兄・源頼朝の命に従い、壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させた義経だが、その後、兄弟の不和は決定的となり、義経は藤原秀衡を頼って奥州へと落ちのびる。秀衡は、義経を厚遇するが、まもなく逝去。 頼朝は、義経追討の院宣を取りつけ、泰衡に義経の身柄を要求するが、泰衡は言を左右にして確答を避け続けた。頼朝は、「泰衡の心中、測りがたし」と戸惑う。 文治5年(1189年)4月30日、泰衡は遂に義経の衣川の館を攻めて自刃に追い込み、義経の首を頼朝に差出す。泰衡は、これで一件落着としたかったが、頼朝は6月25日、朝廷に泰衡追討の院宣を求める。7月19日、頼朝が率いる奥州遠征軍が鎌倉を出立する。遠征軍は3ルートに分かれて進軍した。 8月10日、源頼朝の奥州遠征軍が、阿津賀志山(あつかしやま、福島県国見町)の戦いで藤原泰衡軍を撃破。 泰衡は平泉を捨てる決意をして館に火を放って敗走する。頼朝軍は岩手郡厨川(くりやがわ、盛岡市)を目指して進軍を再開し、志和郡陣岡(じんがおか、紫波町)にさしかかったころ譜代の家臣・河田次郎に裏切られ、比内郡贄柵(ひないぐんにえのさく)で泰衡は討ち取られ、四代・百年にわたる奥州藤原氏は滅亡する。 ◇ 土産用菓子業界でも“政権交代” 大藤 vs 喜多村 衆院選の民主党圧勝を受け、鳩山由紀夫代表にちなんだ菓子を販売してきた東京の卸売業者が、国会内の売店などで政権交代を祝う饅頭をさっそく売り出す。 東京・永田町に3棟ある議員会館の地下売店では、政治家にちなんだ菓子が売られている。全国から毎日のように訪れる修学旅行生らが、土産として買い求めていく。 卸売会社「大藤(だいとう)」(東京都荒川区)は、2001年から歴代首相にちなんだ菓子の販売を始めた。安倍晋三元首相をモチーフにした黄な粉味の「晋ちゃんまんじゅう」は、1年で約55万個売れるヒットを記録。麻生太郎首相の就任後も牛乳まんじゅう「秘密の太郎ちゃん」などを販売してきた。 一方、3年ほど前から民主党幹部をモデルにした菓子を販売してきたのは「喜多村」(東京都台東区)。今年6月には「鳩山民衆サブレー」、7月には鳩山代表と岡田克也幹事長の顔がパッケージに並ぶ「日本をかえるまんじゅう」を相次いで販売。これまでにサブレーは6300個、まんじゅうは3000個余り売れ、評判は上々だったという。 喜多村は308議席を獲得する衆院選圧勝を受け、5日から東京駅構内の売店などで「308 祝 政権交代紅白まんじゅう」を発売する。週明けの7日からは議員会館の店頭にも並ぶ予定。品数で大藤に後れを取っていたが、鳩山内閣発足後にも新商品を投入する予定で「菓子でも政権交代」と意気込む。 一方、衆院選で自民党が勝利すれば「政権防衛」という名の菓子を売り出すことも考えていた大藤は、壊滅的大敗で「幹部がショックを受けて体調を崩した」と言うほど。新たな自民党の顔が決まるまで、新商品のアイデアを模索する日々が続くのだった … 。 |

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駆け込み天下りを容認した、舛添、石破両名も総裁は、新生自民党はどうでしょう!??
2009/9/7(月) 午前 8:57