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平成21年10月7日(水)昨日:補正執行停止2.5兆円、首相なお上積み指示。 政府は6日、2009年度補正予算の見直し状況の1次集計結果を公表した。 13府省庁の補正予算総額14兆6630億円のうち、執行停止額は17%にあたる2兆5169億円に上った。 鳩山首相は民主党内で目標額とされてきた3兆円に近づけるため、仙谷行政刷新相に、さらに上積みを図るよう指示した。 刷新相は同日夕、記者会見し、各省庁に凍結事業の追加を求め、来週中の最終取りまとめを目指す考えを示した。最終結果は閣僚委員会に諮った上で閣議決定する方針。 13府省庁のうち、凍結事業額が最も多かったのは国土交通省の8875億円。農林水産省4763億円、厚生労働省4359億円と続いた。補正予算計上額に占める割合で見ると、農水省が46%で最大。国交省38%、防衛省33%と続き、最小は内閣官房・内閣府の0.4%(99億円)だった。 10月7日は、石坂洋次郎忌です。 ◇ 石坂洋次郎(1900年〜1986年) 青森県弘前市代官町生まれ、慶應義塾大学国文科卒。 弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部卒業。大学時代に心酔していた郷里の作家・葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、泥酔した葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を覚える。 1925年、青森県立弘前高等女学校(現・青森県立弘前中央高等学校)に勤務。翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現・秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現・秋田県立横手高等学校)に勤務し、教職員生活を終える。 石坂に国語と作文を教わったジャーナリスト・むのたけじは、前から成績の悪い順に着席していた当時の教室で、授業中は教師と目を合わせないようにうつむいていた前列の生徒たちが、石坂の授業だけは「あててくれ」といわんばかりに顔を上げるようになり、教室の風通しがよくなったと感じたと述懐する。 英語の試験の試験官をしていた際の石坂は、答えのわからない生徒たちに聞かせるかのように窓の外に向かって正解をつぶやくのを何度か目撃したと言う。教室で生徒を解放させるような暖かなムードを持ち、空気のように包まれる感じであったとも回想する。 石坂洋次郎は、葛西文学への反撥から健全な文学を志し、『海を見に行く』で注目された。「三田文学」に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞したが、右翼団体の圧力をうけ、教職を辞す。 向井潤吉「仮眠する石坂洋次郎」鉛筆、水彩・紙 1941年頃 石坂洋次郎は戦時中、二度にわたってフィリピン従軍を体験している。一度目は昭和16年11月から翌年12月まで。陸軍宣伝班(のちに報道班と改称)としての徴用であり、その任務とは、フィリピン人に対する宣撫活動(大東亜戦争の真意を説いてフィリピンの民心の安定をはかり、日本に対し信頼と協力の態度に転向させるための活動)を行うことだった。共に従軍した作家に、尾崎士郎、今日出海らがいた。当時、石坂は41才だった。『若い人』がベストセラーとなった後、教師の職を辞し、職業作家に専念して二年後のことであった。 向井潤吉(1901〜95)によるスケッチ「仮眠する石坂洋次郎」は、このフィリピン従軍時代に描かれたもの。「疲れるとこんな罪の無い型になります 御油絵師丹痴亭事 向井潤吉謹写」(「丹痴亭」は向井の号)と書き添えられたこのスケッチは、石坂が日本の家族に近況を伝えるため送ったものと思われます。 向井潤吉は京都出身の洋画家で、石坂と同じ昭和16年11月に召集を受け、宣伝班員としてフィリピンに従軍した。この戦争体験をもとに、油彩やスケッチなどの作品を描いており、従軍記『南十字星下』(昭和17年)、画文集『比島』(昭和18年)の著書もある。 日記形式の従軍記『南十字星下』では、淡々とした日々の描写の中に、宣伝班員として共に活動した石坂との交流も記される。マニラへ向かう船上での石坂の様子は、次のように描かれている。「石坂君は余程身体に要心していると見えて、閑さへあると湯を詰めた水筒を手に、甲板に出て新鮮な空気を吸ひ、絶えずラジオ体操の真似みたいなことを黙々とやつている」。 もともと身体が丈夫でなく、しかも40才を過ぎて徴用された石坂にとって、軍隊生活は容易なものではなく、体調の管理は何よりも重要な問題であった。昭和55年、従軍から30年以上を経て刊行された最後の単行本『マヨンの煙』で、石坂は次のように心境を綴っている。 「前線の生活を思うことは、私にとって憂鬱の種だった。東京から持ち越した不眠症、それに伴う衰弱、微熱。私は朝起きた時から重い疲労にとりつかれて居り、物の役にも立たなかった。そして前線では、身体が弱いことは、理窟もなしに、いきなり恥辱の感じで自分の上に響いてくるのであった。丈夫になろう! 健康になろう! 私は人生の下り坂につきかけた自分の年齢を顧みて、事に触れては、自信の無い呟きを洩らすばかりだった … 」。 戦後は、『青い山脈』を「朝日新聞」に連載、映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」と言われるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。1966年、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受ける。 しかし、石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語り、平面的な評価を退けた。 横手城址の文学碑に、横手中学(現・横手高)の国語教師をしながら書き続けた『若い人』の一節、「小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成の方が、はるかに大きなものがあることを忘れてはならないと思う」という言葉が刻まれています。 1936年、第1回三田文学賞。 1966年、第14回菊池寛賞。 1986年、静養先の伊東市にて硬膜下出血で死去。 |

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涙が出るほど、懐かしいですね。原節子の大フアンになりましたね。私ども戦中、戦後に女学生生活を送ったものには、暗さを払いのける指示標のようなものでした。原節子が暫くして引退し、世間と没交渉になったことは、私のようなフアンを落胆させました。
2009/10/9(金) 午前 3:48 [ kaz*_51** ]