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10月31日は、秩父事件

 平成21年10月31日(土)今夜:日本シリーズ開幕、初戦を制するのは?

 日本シリーズ(4戦先勝制)が31日、札幌ドームで開幕する。ことしは3年ぶりの日本一を狙う北海道日本ハムと、7年ぶりの日本一奪回を目指す巨人が対戦。両チームは、CS第2ステージを、ともに4勝1敗で勝ち抜いてきた。交流戦での対戦成績は2勝2敗の五分で、ダルビッシュ有とグライシンガーという両エースの登板が危ぶまれている点も同じ状況。勢いに差は感じられないだけに、シリーズの流れをどちらが先につかむかが重要。



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 10月31日は、「秩父事件の日」です。(1884年・明治17年)

 秩父事件とは1884年、埼玉県秩父郡を中心に起こった蜂起事件で、自由民権運動最大規模の激化事件として知られる。 当時、財政の最高責任者である大蔵卿・松方正義は、厳しい緊縮政策をとっていたためデフレが進み、小企業や農民を圧迫した。秩父地方の農民も、生活の基盤としていた養蚕・製糸業に大きな打撃を受け、さらに、地方税の増税、学校費の負担、秩父新道工事の賦役などが加わり、多くの農民が負債を抱えるようになった。

 そのような状況下、1884年2月、自由党の大井憲太郎が、秩父で遊説したのを機に、農民指導者たちが自由党に入党し、自由民権運動と結びついてゆく。その後、組織は拡大し、9月には「秩父困民党」が結成された。「総理」は、田代栄助で、借金の10年据え置きや、学校費の廃止、地方税の減免などを要求して、請願運動をしましたが、ことごとく拒否されたため、約1万の農民が蜂起した。

 農民軍は警官や役人を追い払い、高利貸しを襲撃した。秩父現地の警察は壊滅状態になったため、政府は憲兵隊や鎮台兵を差し向け、埼玉、群馬の警察も加えて鎮圧した。そして、「総理」の田代栄助ほか数名を死刑とし、多くの者を厳刑に処した。


 ◇ 自由民権運動と「秩父困民党」

 1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉・群馬・長野などの民衆数千人が、負債の延納、雑税の減少などを求めて武装蜂起した事件。山国秩父では、江戸時代なかば以来、養蚕がさかんだった。農民たちは石だらけの傾斜地に桑を植え、蚕を飼って生糸をとっていた。 1859年(安政6年)、ヨーロッパ・アメリカとの貿易が始まってからの、日本の最大の輸出品は生糸だった。秩父の農民がつむいだ生糸も横浜に運ばれ、イギリス商人らに高値で買いとられていった。

 明治に入ってからも秩父の農民たちは、桑の増産や養蚕・製糸のための道具の改良に知恵をしぼった。養蚕先進県・群馬と接する秩父地方には、温度管理・湿度管理を徹底することで繭の安定した収穫をはかる児玉町・競進社系の「温暖育」などが導入された。また、水力を使った機械製糸工場を創業しようとする人々や、困難ではあるが成功すれば大きな利益が見込める天蚕飼育に挑戦する人々もいた。山国秩父で、斜面の多い大地に根ざした近代産業をいかにして創っていくかが、地域の課題であり、人々は金融業者から借りた資金を設備投資に投入した。

 明治初年から松方デフレの時期まで、ヨーロッパで蚕病が流行したことも手伝って、景気はおおむね好況の内に推移した。経済的な活況を反映して、村の祭りが華やかに催され、芝居・踊り・人形芝居・相撲・剣術などの民衆娯楽・芸能が開花した。各地から、さまざまな人々が秩父に往来し、新しい情報が秩父の谷にも流れこんだ。自由民権の思想もそのひとつであった。

 1879年(明治12年)の下吉田・久長・阿熊・上日野沢連合村会の記録には、「自由」や「権利」を謳歌する言葉が躍っている。1881年(明治14年)に、板垣退助らによって日本で初めての政党である自由党が結成された。188年2(明治15年)には、群馬県の自由党員の影響で、下日野沢村の中庭蘭渓が自由党に入党し、秩父に自由党の組織が作られた。

 1881年(明治14年)以後、大蔵卿に就任した松方正義によるデフレ政策の影響が出始めたのは翌年あたりからだった。軍備を拡大するための間接税の増税と緊縮財政によって、日本各地の農村は深刻なデフレに見舞われた。その影響によって、生糸の価格は大暴落し、養蚕に賭けていた農民たちの生活は破滅に瀕した。学校費の負担や、国政に関する業務の拡大によって増える町村費が、彼らの負担を更に重くした。

 1884年(明治17年)2月、自由党幹部の大井憲太郎が来秩し、演説会を開く。 また、落合寅市の回想録によると、同年3月に東京で開かれた自由党大会の際、大井憲太郎ら有志が専制政府転覆に向けた地方の組織化を秘密裡に決議した。高岸善吉がこれに参加し、帰郷後、秩父の自由党員らに伝えた。

 この年の養蚕が終わったあと、負債に悩む秩父の農民たちは、各地で山林集会を開き「困民党」と呼ばれる集団が組織されていった。その中心は自由党員であり、困民党の活動を通じて自由党に入党する人も出てきた。自由党中央は、政府による懐柔と抑圧によって、広範な国民を組織する展望も力量も失っていたが、在地の自由党員を中核とする秩父困民党は、請願活動や高利貸との直接交渉をくり返す中で、武装蜂起路線を決定する。

 1884年10月半ば以降、資金面をはじめとする蜂起準備に入った。決起に向けた組織活動は自由党員ら(少なくとも300名以上の党員が存在)によって進められ、秩父地方だけでなく、秩父に隣接する埼玉県男衾郡や大里郡や、群馬県多胡・緑野・南北甘楽郡、さらには長野県南佐久郡に及んだ。

 11月1日の夕刻、吉田町椋神社で困民党が武装蜂起した。「総理」田代栄助以下の困民党役配や五ヶ条の軍律は、ここで決定された。困民軍は、同日深夜には小鹿野町、翌日には郡都大宮郷を占拠し、さらに皆野町に進んだ。しかし、政府側は警察のみならず、憲兵隊や東京鎮台までを動員し、徹底的な武力鎮圧をはかった。困民軍は、群馬県山中谷をへて長野県南佐久まで転戦したが、11月9日には壊滅する。

 各地の戦闘での戦死者は、困民党側で25名を超えたと言われ、警官が3名、他に無関係の婦人1名が亡くなっている。事件後の裁判の結果、死刑7名を含む4000名余が処罰され、事件は「秩父暴動」と呼ばれて、郷土の恥ずべき歴史として記録された。 一方では、事件参加者をはじめとする復権に向けた運動も行われ、ねばり強い顕彰活動の中で事件の史実が解明され、事件の真相が定着した。しかし、未解明の部分も多く今後の課題も大きい。


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 ◇ 田代栄助は絞首刑に処され、菊池寛平が「総理」を引き継ぐ

 井出為吉は、佐久の北相木村屈指の豪農で、明治12年に21歳にして村会議員を勤める。彼の蔵書には『仏国革命史』『広議世論』『民権自由演説規範』『欧米政党沿革史』などがあり、熱心な自由民権家であった。

 困民党は11月1日には秩父郡内を制圧し、高利貸や役所等の書類を破棄します。しかし、当時最新の機器の電信で蜂起を知った政府は、直ちに警察隊・憲兵隊等を送る。抑え込めずと見るや、陸軍の鎮台兵を送り込み、11月4日には秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧されたと言う。

 一部の困民軍は、佐久の北相木村出身の菊池寛平を「新総理」とし11月7日に十石峠を超え、大日向村(佐久穂町)本郷の龍興寺に信州最初の本陣を構えます。困民軍は「人民斯く蜂起せしは、来る23年の国会開設を待ちかねてのことなり。今、17年11月1日全国尽く蜂起し、現政府を転覆し、直ちに国会を開くの革命の乱なり」と、南佐久の村から人々を募り、南佐久郡16ヶ村から576人の参加者を集める。

 8日には東馬流(まながし)の井出直太郎方に本陣を移し、9日の早朝から高崎鎮台兵に戦いを挑むが、鎮台兵の村田銃に対して、困民軍は火縄銃で相手にならなかった。東馬流の集落に逃げ込むが13人が戦死、困民軍は、甲州街道を南下する。午後2時頃、秩父困民軍はついに野辺山原に壊滅。蜂起から10日間、武州、上州、信州にまたがる反権力の戦いは終わりを告げた。

 諏訪神社の傍らに「秩父事件戦死者の墓」がある。昭和9年11月9日、菊池寛平の孫達が建立したもの。寛平の孫である方は、「志士という言葉もいいが、暴徒の方が良いと思った」と語ったとも伝わる。 暴徒、逆賊と呼ばれようとも、刑死を覚悟して決起せざるを得なかった困民党の面々の衷心は、今なお暗い淵に沈んでいるのかも知れません。


 【参照】10月31日、ハロウィン
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/22750705.html

 【参照】10月31日、宗教改革記念日(1517年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/45319201.html

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