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平成21年11月11日(水)昨日:森繁久彌さんが御逝去、96歳でした。 長年にわたり芸能界で活躍された森繁久彌さんがお亡くなりになりました。 10日午前8時16分、老衰のため入院先の都内の病院で逝去されました。 11月11日は、淀川長治の命日です。 ◇ 淀川長治(1909年〜1998年) 兵庫県神戸市出身の映画評論家。旧制兵庫県立第三神戸中学校卒、日本大学法文学部美学科予科中退。その独特の語り口から「サヨナラおじさん」として親しまれた。 1909年4月10日、芸者置屋の跡取り息子として神戸に生まれる。父・又七(1853年〜1944年11月11日)、母・リウ(りゅう、1882年〜1970年)。淀川長治は、父56歳、母26歳の時の子であった。母は、父の本妻の姪にあたる。長く病身で子ができないことを悔やむ本妻が、妾として姪を夫に勧めたのだった。本妻は、生まれてまもない長治を病床で抱かせてもらい、安心したように数日後に永眠する。実母はその後、本妻となる。姉が二人、弟が一人(弟は後に自殺)。 映画館の株主だった親の影響で、子供の頃から映画に精通していた。母・リウは湊川の活動写真館で喜劇映画を見ていた時に産気づいたという。旧制の兵庫県立第三神戸中学校(現在の兵庫県立長田高等学校)を卒業後、慶應義塾大学文学部文学科予科の入試に失敗し、日本大学法文学部美学科予科に籍を置くが、出席せずに中退。なお、中学時代には、自ら企画して毎月の全校生徒による映画鑑賞を実現させている。 雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の編集者として活動。その後、UA(ユナイテッド・アーチスト映画社)の日本支社、東宝映画の宣伝部に勤務する。1936年2月、来日したチャーリー・チャップリンとの会談に成功。その後、日本におけるチャップリン評論の第一人者となる。 1960年から1963年まで日本教育テレビ(現・テレビ朝日)で放送された、ドラマ『ララミー牧場』の解説でお茶の間から脚光を浴び、1966年から始まるテレビ朝日系長寿番組『日曜洋画劇場』(当初は『土曜』だった)の解説者として、番組開始から死の前日までの実に32年間、独特の語り口でファンを魅了し続けた。 淀川長治の名セリフとして、「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」、そして終りには必ず、「それでは次週をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら ... 」と言うフレーズは、彼の代名詞ともなり、よく小松政夫がまねをしたものだった。 北野武によると、「こうすれば売れるだろう」と言う、いい加減な計算の作品をすぐに見抜き、酷評していたと言う。北野武の映画に関しては、「お年寄りを馬鹿にしている」と、北野の作風を嫌っていた上、「『その男、凶暴につき』とか『3-4×10月』だの、気障なタイトルをつけていい気になっているのが鼻につく」として、酷評していた。 (スピルバーグについては、「いいのは『激突』『続・激突』だけ。『ジョーズ』以降は、商業主義に流されて堕落する一方だった」と酷評する。 ※ 大いに共感するところだ。) しかし、『あの夏、いちばん静かな海。』を観たときは、その繊細さに「これをあのたけしが撮ったのか」と驚き、冒頭のシーンでは感涙したと言う。これを契機に、淀川の北野への認識が変わり、彼を「映画の詩人」とさえ呼んで評価し、対談を望むようになった。後の『キッズ・リターン』なども絶賛している。 今日では世界的な巨匠とされる小津安二郎については、その独特の演出作法が肌にあわず、まったく評価していなかった。 ( ※ 映画とは感性のもの。好き嫌いが顕著であることは、必須の要件だ。私は小津映画のリリシズムが大好き。) 1998年11月11日午後8時11分、腹部大動脈瘤破裂が原因による心不全で死去。享年89。奇しくも父・又七が亡くなった日と同じ日だった。 それは、11月15日放送分の『ラストマン・スタンディング』の解説収録の翌日だった。 喪主は姪の編集者・淀川美代子。戒名は、「長楽院慈悲玉映大居士」。 晩年の10年余りはホテル住まいだった。生涯ひとり暮らしの彼には、この上なく快適な空間だった。テレビ朝日のすぐ近くにあり、職住近接でもあった。 晩年の彼の口癖は、「もうすぐ死にますから、何でも聞いてください」と明るく言い、自分の知っている事は何でも惜しげなく人に伝え、若い頃には言えなかった告白もしたようだ。 彼の理想の死とは、「映画館で映写が終わったのに、まだ座っている老人がいる。従業員が『お客さん、もう終わりましたよ』と声をかけると、死んでいた。そんな最期が最高」と語っていた。 テレビ朝日・日曜洋画劇場、淀川長治「さよなら、さよなら、さよなら」 金曜ロードショー、水野晴郎「いや〜、映画って本当にいいものですねえ」 ◇ 卑弥呼の宮殿? 奈良で3世紀の大型建物跡を出土 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼が活躍した時代にあたる3世紀前半〜中頃の大型建物跡が見つかったと、市教委が10日、発表した。 当時としては国内最大の規模であることから、「卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり、邪馬台国論争に一石を投じそう。見つかった大型建物跡は南北19.2メートル、東西6.2メートル以上(推定12.4メートル)の規模で、柱の直径は約32センチ。掘っ立て柱の建物で、高床式とみられる。 纒向遺跡:東西2・5キロ、南北1・5キロの範囲に広がる、3〜4世紀では国内最大の集落遺跡。関東から九州まで各地の土器が出土しているほか、近くに「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳など多くの大型前方後円墳があり、大和王権誕生の地とされる。 ※ 畿内か? 九州か? そんな邪馬台国論争は不毛に思える。仮に畿内に日本最大規模の建物跡が存在したとしても、それが邪馬台国であるなどとは決して言えない。まず、九州に権力による組織体が構成されて、次第に東に移動してゆくと見るのが自然で、考古学の領分に国家史観など持ち込まない方がよい。そもそも、「邪馬臺国」という呼称も、「邪馬壹国」が正しいという説もある。それを、「大和」の類似から故意に「邪馬台」を採用したとも。 何れにせよ「邪」と言い「卑」と言い、ありがたくない文字ではある。誰がつけたものやら … 。 |

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