今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成21年12月22日(火)昨日:たばこ増税、またも中途半端な意味不在。

 鳩山内閣は21日、来年度税制改正で、1本約8.7円のたばこ税を来年度から引き上げ、メーカーの値上げ分も含めて1本当たり5円程度引き上げる方針を固めた。1箱(20本入り)で約100円の値上げになる見通し。同日夜、政府側と民主、社民、国民新の連立3党が合意。

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 ※ 鳩山首相は21日夜、たばこ税増税を「税収を得るためということより、国民の皆さんの命を大切にする。健康のためという発想を重視したい」と説明したが … 。 また財務省の試算では、1本1円程度の引き上げで国と地方で、税収は年約1300億円強増える、と言うが … 。 もともと軍費調達目的で始まったたばこ税。今では、国と地方に毎年2兆円規模の税収をもたらす「お宝」となっているが … 。

 増税しても税収は増えず、増税によって禁煙者が特段に増えるわけでもない。喫煙習慣の衰退と増税との因果関係は見当たらない。ましてや、5円の値上げを二度に分けようかと迷っているようでは、「国民の健康」など嘘の皮だ。 1箱千円、これが「国民の健康」を願う値段設定だ。単細胞生物など、煙草の煙だけで死滅する。われら人間も60兆細胞の集合体にすぎない。



 12月22日は、「後水尾天皇の譲位」の日です。(1629年)

 ◇ 紫衣事件、そして、後水尾天皇の譲位

 紫衣事件とは、江戸時代初期における江戸幕府の朝廷に対する圧迫と厳しい統制を示す、朝幕間の対立事件です。江戸初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる。後水尾天皇は、この事件をきっかけに譲位を決意。その譲位先は、なんと御歳7歳の第二皇女・興子(おきこ)内親王(明正天皇)だった。これは、朝幕関係に決定的な打撃を与えることになる。 後水尾天皇の譲位が、寛永6年11月8日、新暦の1629年12月22日のことだった。 紫衣とは紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧尼が朝廷から賜わるものだった。僧尼の高貴を表すと共に、朝廷にとっては大切な収入源でもあった。(明正天皇は、称徳天皇以来859年ぶりの女帝。)


 ◇ 徳川幕府の朝廷弱体化政策

 慶長18年(1613年)、幕府は、寺院・僧侶への圧迫および朝廷と宗教界との離間策を図り、「勅許紫衣並に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を定め、さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷が濫りに紫衣や上人号を授けることを禁じる。

 一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

 かくの如くに、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通りに幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(三代将軍・家光)は寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなし、多くの勅許状の無効を宣言、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じる。

 幕府の強硬な態度に対して、朝廷はこれまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反発。さらに大徳寺住職・沢庵宗彭(そうほう)や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。 これに対する幕府の仕置きは極めて厳しいものだった。寛永6年(1629年)7月、幕府は沢庵ら幕府に抗弁した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。(大徳寺の沢庵宗彭は出羽国へ流罪、妙心寺の単伝士印も出羽国、東源慧等は陸奥国へ流罪となる。)

 ※ 寛永18年(1641年)に、徳川幕府は妙心寺との関係修復に動く。天海や春日局らが調停役となり、単伝・東源・沢庵らの赦免解放に尽力。曲学阿世の徒とは対照的に、時が経てば自ずと光を発するのが、真正の禅僧と言うべきか。家光は、柳生但馬守宗矩の言葉を聞き入れ、品川に4万坪の土地を与え万松山東海寺を建て、その開山に沢庵を迎える。

 ※ 沢庵の遺言「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」。 そして、弟子と言うものは、これらの戒めを尽く破るものなのだ。

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 ◇ 家康の執念 武家の国家建設

 「公家衆法度」「勅許紫衣法度」を制定し、次いで慶長20年(元和元年)7月17日(1615年9月9日)には「禁中並公家諸法度」を公布。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた。その上、運営も摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて、幕府の承諾を得る事により、初めて施行できる体制へと余儀なくされた。これにより摂家以外の公卿や上皇は、朝廷の政策決定機関から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われるようになる。

 元和6年(1620年)に徳川和子が女御として入内する。これこそが元和2年(1616年)に没した家康の秘策だった。公武合体と言うよりも、乗っ取りとも言えるものだった。そして、寛永4年(1627年)の紫衣事件、さらには、家光の乳母である福(春日局)を無位無官のまま朝廷に参内させるなどと言う破天荒に、天皇の権威は完全に失墜した。後水尾天皇の内親王への譲位は、このような状況下での出来事だった。

 古代より「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という不文律がある。これは元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主な意図であるが、後水尾天皇はこの不文律を逆手に取り、天皇家から徳川の血を絶やし、後世にその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘の明正天皇を即位させたと言われる。

 ※ 家康の「尊敬する人物」とは、頼朝だった。朝廷の権勢を用心深く敬遠して、京から離れた地に幕府を打ち立てた武家の棟梁として、最大限の評価をしていた。朝廷を利用するものとした頼朝と、朝廷に振り回された義経と、その命運は甚だしく異なるものとなった。


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 【参照】12月22日、冬至祭(2007年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/39040872.html
 ※ 冬至は湯治、半身浴であったまろ。
 ※ 冬至は杜氏、酒風呂であったまろ。
 ※ 入浴剤、ぽんと投げ入れ柚子湯かな。

 【参照】12月22日、ベケット忌(1989年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/46150077.html

 【参照】クリスマスは、実は冬至祭だった!
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/25761559.html

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