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平成22年2月10日(水)本日:「反小沢系」枝野氏が行政刷新相に就任。 鳩山首相は10日午前、民主党の枝野幸男・元政調会長(45)を首相官邸に呼び、仙谷行政刷新・国家戦略相の兼務を解き、枝野氏を行政刷新相に起用する方針を伝えた。枝野氏は皇居での認証式を経て正式に就任。昨年9月の鳩山内閣発足以来、閣僚の補充は初めて。閣僚は内閣法で定める上限の17人となった。 首相や小沢幹事長の「政治と金」の問題などで内閣支持率が下落傾向にあるなか、昨年の「事業仕分け」で総括役を務めて、小沢氏と距離を置く枝野氏の起用で清新なイメージを演出して、政権浮揚を目指す考えを示したものか。首相は8日に首相官邸で小沢氏と会談した際に、枝野氏起用の方針を伝え「全く異論はない。しっかりやろう」と了承を得た事を明らかにした。 枝野氏は首相との会談後、記者団に対し「仕事を着実に進めることが政権に対する期待と信頼を高める事になる。精いっぱい努力したい」と語った。 ※ 夢舞台・参院選まではおとなしく隠忍自重の小沢天皇。 2月10日は、岡田嘉子の命日です。 ◇ 岡田嘉子(1902年〜1992年) 広島県広島市細工町(現・広島市中区大手町)生まれの女優、アナウンサー。サイレント映画時代のトップスター女優。奔放な恋愛遍歴とソビエト連邦への亡命など波乱の生涯を送った。 母方の祖母がオランダ人の血を引くため、エキゾチックな美貌を受け継ぐ。父の放浪癖のために、一家は朝鮮の釜山、横須賀、東京湯島などに移り住み、嘉子も小学校を8つも変わった。父は学校で宮城遙拝(皇居遥拝)などがあると、休ませてしまう程のリベラリストで、後年、嘉子の型にはまる事を嫌う奔放な生き方にも影響を与えているものと思われる。 父が芸術座の島村抱月や劇作家の中村吉蔵と知り合いだった事もあり、翌1919年(大正8年)、父に連れられて上京、中村の内弟子となる。 芸術座は前年秋の島村の病死、1919年の松井須磨子の自殺で解散する。中村は松竹と提携し新芸術座を旗揚げ、同年、3月1日の有楽座「カルメン」の端役で初舞台を踏んだ。その新芸術座も、まもなく解散。この後、新文芸協会の東北地方巡業中、座員で早稲田大学予科の学生、服部義治と懇ろとなり妊娠、東京に戻り男児出産。苦肉の策として、嘉子の弟として岡田家の籍に入れる。 多くの劇団の客演をこなし、1921年(大正10年)舞台協会帝劇公演での「出家とその弟子」(倉田百三・作)で当時、息をのむようなラブシーンを演じて観客を魅了した。一躍、新劇のスター女優となる。この後、地方巡業中に共演した山田隆弥と愛人関係となる。これに悩んだ服部は、1925年(大正14年)鉄道自殺する。 岡田が結婚を望んだ山田には、30も歳上のパトロン妻がいる事が分かり、山田の煮え切らない態度に悩む。この妻への意地からか、岡田は日活京都撮影所と契約し、日活から前借りし借金を返済したため、一座を救うために身を売った「大正お軽」と新聞に囃された。 1925年(大正14年)、「街の手品師」に主演。舞台スターだった嘉子は自らの演技を活かせない村田実監督の細かいカット割りに強く反発するものの、この作品の嘉子の演技は「完璧に達せる」との高い評価を得る。給料の大半は借金返済に回され、身売りした女郎に変わりが無いと悩む。 この年は計9本の映画に出演。10月の映画女優人気投票でトップとなる。 1926年(昭和元年)、キネマ旬報ベストテン第2位となった「日輪」(村田実監督)の他7本の映画に主演。この年の講演会で「私たち女優をもっと真面目に扱って欲しい」とスターの人権宣言をする。1927年(昭和2年)「彼をめぐる五人の女」に主演、これもベストテン2位となり、モダンなタイプのヒロイン像は、それまでの日本の女優にないタイプのもので、新しい時代の息吹きとして大きな評判を獲得。 同年、大作映画「椿姫」のヒロインに抜擢され、これまでにない意欲をもって撮影に挑んだが、ロケ現場で大群集を前に村田監督から罵倒に近い叱声を浴びる。また、私生活の悩みを相手役の美男俳優・竹内良一に相談したところ、衝動的に駆け落ちし失踪してしまう。新聞は「情死をなす恐れあり」などと囃したて、スキャンダルとなる。日活からは解雇され映画界からも閉め出された。 岡田と竹内良一との駆け落ちは、「大衆のアイドル」ともて囃されもしたが、反面、その奔放さに対する反感も強く、舞台で立ち往生させられるほどのひどい野次にも見舞われた。 1928年(昭和3年)、直木三十五の肝いりで「岡田嘉子一座」を旗揚げする。1930年(昭和5年)4月に解散するまでの2年間は地方巡業に徹した。 信州、北陸、東北、関西、東海、四国、中国、九州、さらには朝鮮、中国、台湾と、およそ興行の引き受け手があるところが尽きるまで各地をめぐり巡った。 帰京後、日本で端緒についたばかりのトーキーに着目し、プロダクションを設立する。岡田嘉子主演・竹内監督で、舞踏や流行小唄を題材とした十数本の映画を製作し、売り込みを図った。 1932年(昭和7年)、日活時代の借金を肩代わりするとの条件で松竹蒲田撮影所と契約する。しかし、栗島すみ子、田中絹代、川崎弘子ら人気スターの間にあって、若さの盛りにスターの座を退いた嘉子は華やかさでは彼女らに及ばず、役にも恵まれず、小津安二郎の「また逢う日まで」「東京の女」の主演以外は、意欲の湧かないものばかりであった。 衣笠貞之助の股旅物の傑作「一本刀土俵入り」や、小津のネオリアリズムの傑作「東京の宿」に好演するが、使いにくい女優と敬遠されるようになり、自分が真底打ち込める作品を求めて舞台転向を決意する。松竹傘下の新派演劇・井上正夫一座に参加、舞台出演が増える。一年ほど前から竹内との仲も冷え切り、別居状態になっていた。 そして、1936年(昭和11年)8月、嘉子の舞台を演出したロシア式演技メソッド指導者で共産主義者の演出家・杉本良吉との激しい恋におちる。 |

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