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平成22年2月22日(月)昨日:長崎県知事選、民主推薦の候補者が敗れる。 長崎県知事選は21日投開票され、自公両党の支援を受けた新人の前同県副知事・中村法道氏(59)(無所属)が、元農水省改革推進室長・橋本剛氏(40)(無所属=民主・社民・国民新推薦)ら新人6人を大差で破り、初当選。 投票率は60.08%(前回52.27%)。 長崎は、県選出国会議員6人(衆院4人、参院2人)を民主党が独占する「民主王国」の地盤。特に昨夏の衆院選では、新人の福田衣里子氏が自民党の久間章生・元防衛相を破り、政権交代を象徴する県とされ、民主党が橋本氏の擁立を決めた昨年11月時点では楽勝ムードさえ漂っていた。 橋本陣営のある幹部は「『風』で勝った衆院選をみんなが引きずっていた。余韻に浸りすぎたんだろう」と敗因を分析。 選挙の結果は、民主党トップ2人の問題への対応に、県民が納得していないことを意味する。他の民主党幹部や閣僚も一連の問題にだんまりを決め込んでいることに対して、有権者からのイエローカードが示された形だ。 昨年夏の総選挙の自民大敗で、4選に意欲を示していた元自民党衆院議員の金子原二郎知事は戦意喪失して昨年11月、不出馬を表明していた。自民党県議団は急遽、民主党に候補者一本化を打診したが、にべもなく断られていた。負けるはずのない選挙を民主は落とした。 ※ 今夏の参院選を前に実に面白い布石が打たれた。禍福は糾える縄の如し。 「政治とカネ」の問題は、いつでも有権者と表裏一体の問題でもある。我々有権者は、自分に似通った政治家を生み出しているのだ。 2月22日は、富安風生忌です。(1979年) ◇ 富安風生(1885年〜1979年) 俳人、本名は謙次。愛知県八名郡金沢村(現在の豊川市金沢町辺り)に生まれた。豊橋町立豊橋尋常中学時習館、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。 大学在学中に水原秋桜子らと東大俳句会を興す。1919年(大正8年)、高浜虚子に師事し、1929年(昭和4年)、「ホトトギス」同人となる。1920年、逓信省に入り、のち逓信次官に登りつめる。1928年、逓信省内の俳句雑誌「若葉」の選者となり、のちにこれを自身の主宰誌とする。1936年、逓信次官の職を辞して、官界を引退。句作に専念する。 役人の最高ポストである逓信省の事務次官まで経験し、戦後には電波管理委員会の長として、時のワンマン宰相・吉田茂に楯つき、その職を辞す。文人官僚として気骨を示す。 むつかしき辞表の辞の字冬夕焼け 風生(68歳の作) ひややかにわれを遠くにおきて見る 風生(『晩涼』) 風生と死の話して涼しさよ 虚子 (虚子、述懐の一句は、 さながら孔子と顔回の如き、子弟互いに肝胆相照らす間柄を思わせる。) よろこべばしきりに落つる木の実かな 舟ゆけば筑波したがふ芦の花 (『草の花』所収、昭和8年) この頃、思想弾圧の風潮が顕著になり、「京大滝川事件」が起きる。言論弾圧の対象が、従来の共産主義思想から自由主義的な言論へと拡大する大きな転機であった。風生は逓信省の経理局長の要職にあり、その3年後の昭和11年には、逓信省次官となる。そして、昭和11年に「二・二六事件」が勃発している。 風生にとって旅は無上の慰めであった。土浦から潮来への舟旅での作句。風生は、次官になった翌年の昭和12年に退官する。昭和15年、京大俳句弾圧事件、昭和16年、太平洋戦争勃発、昭和20年に敗戦。 かかる日のまためぐり来て野菊晴 枯野道ゆく外はなし行きにけり 柔らかに春風の吹く命惜し 夜半寒くわがため覚めて妻愛し 生きることたのしくなりぬ老いの春 (傘寿) 藻の花やわが生き方をわが生きて (米寿) 授かりし寿をかい懐き恵方道 (93歳) 命ありまた一齢を授かりぬ (95歳) 風生は、数えの九十五で永眠。ほかの多くの俳人に比べ恵まれた生涯だった。 寒雀顔見知るまで親しみぬ まさをなる空よりしだれざくらかな (『松籟』所収) いやなこといやで通して老の春 |

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