|
平成22年3月8日(月)本日:東証、社長辞任理由の訂正で富士通を調査へ。 東京証券取引所は8日、富士通が当初「病気療養」としていた昨年9月の野副州旦(くにあき)前社長(62)の辞任理由を訂正した問題について、事実関係の調査に乗り出す方針を固めた。記者会見や情報開示で不正確な内容を伝えたことが、投資家保護や内部管理体制などの観点から問題がなかったかどうかを調査し、対応を検討するものとみられる。 富士通は6日、臨時取締役会を開き、野副氏を相談役から解任するとともに辞任理由を「取引などの関係を持つことはふさわしくない企業との関係を継続していたこと」に変更した。「野副氏自身が体調を崩していた事実もあったことから、野副氏本人合意の上、辞任理由を病気とした」と説明している。東証によると、社長辞任理由の変更は極めて異例。 ◇ 富士通、問われるガバナンス 解任の前相談役と対立 富士通は6日、前社長の野副州旦相談役を解任し、昨年9月の社長辞任の理由も変更した。一方、野副氏側は富士通に社長辞任の取り消しを求めるなど両者の意見は食い違ったまま。日本を代表するIT企業の社長経験者解任という異例の事態となり、コーポレートガバナンス(企業統治)のあり方も問われそうだ。 秋吉久美子の 『 富士通オアシス 』 (金22萬円也、なんですとー!) 富士通の発表によると、野副氏が主導した事業の一部に風評の好ましくない企業が関与。昨年2月ごろに取締役と監査役が注意し、野副氏は問題を認めて事業から外すと明言した。しかし、その後、その企業の経営者を個人として事業に関与させ続けていたことが判明。9月25日の取締役会の直前、間塚道義会長ら数人の取締役、監査役が、野副氏から改めて事情を聴いた。間塚会長らが「その企業との関係が事実なら社長を解任するが、辞任も受け入れる」と伝えると、野副氏は問題を認めて辞任を選んだという。 一方、野副氏側の弁護士は6日、「辞任しなければ富士通は上場廃止になる、辞任しないなら解任すると迫られた結果で、詐欺か脅迫に当たる」と反論。 ※ 富士通ともあろうものが … 、市場は嫌気して株価は下落、東証も頭が痛い“困ったちゃん”ですね。貧すりゃ鈍するって言うけどねー、今の日本は、イヤなニュースばっかです。 青年よ、大志を抱き、脱ニッポン 。 3月8日は、池田満寿夫忌です。 ◇ 池田満寿夫(1934年〜1997年) 画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督など、従来の枠にとどまらず多彩に活躍した。「エロスの作家」と言われたように、官能的な作風が多い。独創性を重視し、一つの表現手段にこだわらず、たえず変化を求めていった。 旧満州に生まれ、戦後は長野県長野市で育つ。長野県長野高等学校卒業。東京芸術大学の受験に三回失敗し大学進学を断念。このうち、一回は油絵科志望、二回は彫刻科だった。19歳で自由美術家協会展に入選。その後、画家・瑛九の勧めで色彩銅版画の作製に取り組む。この時期、平井蒼太主宰の真珠社から豆本のシリーズを刊行。1957年、東京国際版画ビエンナーレ展に入選。1960年には同展で文部大臣賞を得て脚光を浴びる。 1965年、ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開き話題となる。1966年、32歳のとき、棟方志功に次いで版画家としては最高権威のヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受賞し、池田は国際的にも第一線級の芸術家となる。東京国際版画ビエンナーレ展などで、外国人審査員が評価したのは、池田作品の「東洋的陰翳」だったようだ。 1977年、『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞。『エーゲ海に捧ぐ』は、絵画・歌・小説・映画とマルチな分野で池田自身の手によって表現され話題となった。 1997年3月8日、熱海市の自宅で愛犬に抱きつかれた弾みで昏倒し、心不全で急逝。享年63。4月からの多摩美術大学教授への就任が内定しており、後進の指導にも当たろうとしていた矢先のことだった。 主な所蔵作品は、長野市の池田満寿夫美術館、三重県菰野町のパラミタミュージアム、熱海市の池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家と池田満寿夫記念館でそれぞれ常設展示されている。京都市の京都国立近代美術館は、佐藤陽子から寄贈された版画作品を所蔵する。 善光寺平アートラインめぐり 「 池田満寿夫美術館 」 ◇ 小説『エーゲ海に捧ぐ』 文学面での才能は、芥川賞を受賞した小説『エーゲ海に捧ぐ』で知られるが、20代から詩やエッセイを発表、美術評論も手掛けるなどその文才は美術・文学関係者から注目を集めていた。詩人の田村隆一は、池田の文体はコラージュ的であると批評している。新聞・雑誌に多様なエッセイを発表し、森茉莉、加藤郁乎、澁澤龍彦、吉行淳之介、野坂昭如らの詩集、著作本の装丁をしている。 小説『エーゲ海に捧ぐ』は42歳のとき、米国滞在中に雑誌『野生時代』編集長の誘いで書かれた。『朝日ジャーナル』連載のエッセイが好評だったためで、個展開催のため帰国した際、ホテルに5日間缶詰となって書き上げたと言う。 1976年、野生時代新人文学賞受賞。翌年、芥川賞を受賞。画家が受賞したのは初めてだった。当時の芥川賞選考委員は、井上靖、遠藤周作、大江健三郎、瀧井孝作、永井龍男、中村光夫、丹羽文雄、安岡章太郎、吉行淳之介。その評価をめぐり選考は難航し、3時間を超す異例の選考となった。吉行が池田を強く推薦し、終章部分の修正を池田に呑ませた上で、受賞を決めた。その後、永井は選考委員を辞す。 「アニタは素裸のまま足の裏を私の方へむけて、あおむけに寝ている。だから彼女の脚の付根の蜜の巣が真正面に眺められる。照明のせいか、その部分が濃い青色に見え、腹部や胸の方がなんとなくぼんやりしている。アニタが私の方を見ているのかどうかもよく解らない。私の視覚はガラス製かもしれない一匹の蝿とアニタの蜜の巣だけしか感光していないようだ。カメラの回転する音も継続しているのか、しばらく前から止ってしまっているのか、よく解らないまま右の耳にあてがっている受話器から聞えてくる妻のトキコの声に私は平衡感覚を犯されている状態でいる」 池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家(熱海市海光町10−24) http://www.city.atami.shizuoka.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1231805208708&SiteID=0 池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家(静岡県熱海市海光町10-14) 電話番号:0557-81-3258 大人300円 中・高校生200円 ◇ 映画『エーゲ海に捧ぐ』 1978年の映画「エーゲ海に捧ぐ」は、同名の芥川賞受賞小説とは内容が異なる。ローマなどでロケし、イタリア女優が出演した官能的な全裸シーンがあり、話題を呼び、興行収入は16億円。2作目の映画「窓からローマが見える」は興行的には失敗。脚本・演出を手掛けたり、テレビドラマで、佐藤陽子とともに出演した。クイズ番組にも登場。1992年12月にボードゲームであるオセロのCMに佐藤と共に出演。 ツクダの 「 オセロゲーム 」 CM ◇ 陶芸作品 晩年の陶芸作品、般若心経シリーズの作品群については評価する人が多い。池田は49歳の時、陶芸を始めた。池田は陶芸について、「なんといってもインスピレーションと成り行きだけでどんどん形を作っていけるシステムが私を興奮させた」と、その魅力を語っている。陶芸を始めてから、日本の縄文土器や弥生土器、楽茶碗、織部に改めて関心を抱き始めた。俵屋宗達や尾形光琳の影響を受け、版画でも金色、銀色を使い出す。作風が大きく変化するのは1993年、山梨県増穂町の増穂登り窯(太田治孝主宰)内に野焼き風の焼成が可能な薪窯の「満寿夫八方窯」を造ってからだった。 代表作は「般若心経」シリーズ(パラミタミュージアム蔵)と、「古代幻視」シリーズ(池田満寿夫記念館展示)の作品群。池田満寿夫美術館(長野市松代町)の開館に合わせて制作した「土の迷宮」シリーズの作品群や富士山の様々な景色を描いた陶板画もある。 池田の作陶の作品群の中で、高く評価される般若心経シリーズの作品は、2年がかりで般若心経を立体的に造形化したもの。高さ約1.5メートルの大佛塔6体、佛塔24体、地蔵42体、心経碑34点、心経碗276点、心経陶板54点、佛画陶板30点、心経陶片828点と言う膨大な数だ。 パラミタミュージアムは、ジャスコ・イオングループを事実上創業した岡田卓也の実姉、小嶋千鶴子が私費で建設。池田の死後、『池田満寿夫の造形 般若心経』(1995年、同朋舎出版)を偶然見た小嶋が感動して「般若心経」シリーズの作品群を購入、展示施設を造った後、岡田文化財団に寄贈。 ◇ 満寿院叡彩心酔大居士(静岡県熱海市・医王寺墓地) 熱海駅北面、墓地につづく九十九折りの急坂がある。U字に曲がるたびに一休み、眼下に光る波端は、芽吹き始めた若草の匂いの先、霞のような小島が眩しく眺められる。「空色無」と刻まれた台石の上に金色のオブジェ「大地の顔」、満寿夫の作品が墓標として、開けた海を眺望する。 ◇ 今日の誕生花・コブシ(ラジオ深夜便) 花言葉は、「友情」「歓迎」。 青みたるなかに辛夷の花ざかり 良寛 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用




