今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成22年3月9日(火)昨日:イルカ漁告発の米「ザ・コーヴ」アカデミー賞。

 第82回米アカデミー賞の授賞式が7日、ロサンゼルス・ハリウッドのコダックシアターであり、和歌山県太地町のイルカ漁を告発した米映画「ザ・コーヴ (The Cove) 」(ルイ・シホヨス監督)が長編ドキュメンタリー賞を受賞。(映画のタイトルは「入り江」を意味する。) 太地町でイルカ漁の現場に潜入、隠し撮りした。シホヨス監督は米国の団体「海洋保護協会」の代表を務め、映画を通じてイルカ漁を自然保護に反すると批判している。 撮影手法を含めて日本では物議を醸し、太地町などが反発、一部の上映会が中止された。日本での公開は6月頃に予定されている。

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 米国では2009年7月末に公開、第1週に4ヶ所だった上映館が翌週は56ヶ所に増えた。米映画情報サイト「IMDb」によると興行収入は約86万6千ドル(約7800万円)。2009年の米サンダンス映画祭で米ドキュメンタリー映画部門の観客賞を受賞。米放送映画批評家協会のドキュメンタリー賞にも選ばれた。 「年2万3千頭が不必要に殺される」「水銀で汚染されたイルカ肉が学校給食に使われている」という映画の指摘を、米メディアは衝撃的に受け止めた。かつて水銀を防腐剤に使った小児ワクチンをめぐる集団訴訟が起きるなど、水銀汚染に敏感な米国社会の風潮も無関係ではない。 ただ、この作品が一頭地を抜いたのは、環境保護映画にとどまらない味付けを加えたからだ。

 TVドラマ「わんぱくフリッパー」のテーマ


 イルカ保護活動家として登場するリチャード・オバリー氏は、1960年代に日本でも放映された米テレビドラマ「わんぱくフリッパー」に登場する、イルカ調教を担当した元トレーナー。かつてイルカを利用した張本人が、身の危険を顧みずイルカ漁の実態を告発する … 。米シカゴ・トリビューン紙は「改心の物語だからこそ『ザ・コーヴ』は成功した」と評した。 さらに、隠しカメラを据え付けたり、警察官と思われる何者かに尾行されたりする展開が「ハリウッド映画の演出と同じくらいサスペンスに満ちた現実」(米MSNBCのウェブサイト)という評価につながった。

 ※ 人間が営む文化とは、本来的に反自然を免れない。文化とは、もとより自然に背くものである。逆に言えば、一切の文化を排したところにこそ、最もロハスな生活が現れる。 かつて米国は、油を採取する目的のためだけに捕鯨し、残った「絞り滓」は廃棄していた。これもまた、ひとつの文化であったのだ。

 ある者が生きるためには、ある者を殺さねばならない。ベリタリアンと雖も、他者の命を喰らうことに変わりはない。「いただきます」とは、他者の命を戴くことなのだ。だからこそ、食事の作法として、貪りの心を戒め、他者の命を戴いて養う吾が身を慎み、些かなりとも世の役に立とうと心がけよと、示されているのだ。

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 それにしても、「身の危険を顧みずイルカ漁の実態を告発」と、言われなければならない日本とは、どれほど野蛮な国と認識されているのだろうか? 地元住民の反発など歯牙にもかけぬ傍若無人ぶりを棚にあげて、白人が有色人種を見下す構図が垣間見えてくる。シーシェパードにも通底する差別意識のように思える。



 3月9日は、成田知巳の命日です。

 ◇ 成田知巳(1912年〜1979年)

 香川県高松市出身。日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任。 高松市議会議員をつとめた成田鷹次の子として生まれる。旧制高松中学(現・香川県立高松高校)を経て、第四高等学校(現・金沢大学)、東京帝国大学(現・東京大学)法学部へと進む。 1946年の総選挙に無所属で出馬し落選。翌1947年の総選挙では、社会党から立候補し当選。以後、連続12回当選。社会党内では鈴木茂三郎派に属した。1955年10月社会党が統一されると、総務局長に就任し、1960年、浅沼稲次郎委員長の下で政策審議会長に任命される。

 江田三郎書記長が構造改革論を唱えると、成田はこれに賛同し、江田とともに一躍、マスコミの脚光を浴びることとなる。1962年、江田が書記長を辞任すると、江田の名代として書記長に就任。 次第に右派と接近していく江田とは対照的に、成田は左派的な発想から抜け出すことが出来ず、「闘う構造改革」などを唱え、次第に主張が社会主義協会と変わらなくなってしまう。1964年1月1日付の『社会新報』に、社会党の弱点として「日常活動の不足・議員党的体質・労組依存」の三つを指摘し、「成田三原則」と名づけられたが、具体的な処方箋を示すことは出来なかった。

 1967年、臨時総会で健康保険法改正案の決議を巡って対立した責任を取って佐々木更三委員長はじめ執行部が退陣すると、成田も書記長を辞任。しかし、1968年8月、勝間田清一委員長が参院選での社会党敗北の責任を取って辞任した為、委員長に就任し、書記長に江田三郎を指名した。政治家としてのキャリアでは上である江田が成田の下に配置されたこの人事は「逆子人事」と呼ばれた。

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 1969年の総選挙で100議席割れの大敗を喫し、辞意を表明するが、佐々木更三派や社会主義協会に受けが良い成田は辞任を認められず、その後も佐々木派や社会主義協会の支持で委員長を続投していくこととなる。江田が委員長選挙に挑戦するため書記長を辞任すると、石橋政嗣を書記長に任命し、以後、成田 - 石橋のコンビで党を運営する。

 その後、党内で親中派の佐々木更三派と親ソ派の社会主義協会が対立をはじめ、1974年には江田と佐々木が和解して、反協会派を結成する。成田はこうした党内の対立をおさえるためのリーダーシップをほとんど発揮することがなかった。

 成田委員長の時代は、革新自治体が各地で数多く誕生していた時期で、「地方から中央を包囲する」などと意気盛んな声が社会党内から出されていたが、実際には社会党の地方組織は、革新自治体のパートナーであった公明党や日本共産党に侵食され、社会党組織の空洞化が進んでいった。 1977年、参院選敗北の責任をとって委員長辞任。1979年、白血病で急死。

 ※ 旧社会党は理念に終始し、理論闘争の果ての離合集散を繰り返し、現実の政治に無関心だった嫌いがある。成田自身は、党内に確固とした基盤を持っていなかったため、委員長としてのリーダーシップを発揮できず、党勢衰退の歯止めをかけることが出来なかった。 人間としての誠実さには多くの者が信頼を寄せたが、政治家としてはさしたる仕事もできなかった。 彼を敬愛して已まなかった石橋政嗣は、ほぼ独力で成田の追悼録三巻を完成させた。

 『成田知巳・活動の記録』(全三巻)成田知巳追悼刊行会 1982年。



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   ◇ 今日の誕生花・シバザクラ(ラジオ深夜便)

   花言葉は、「合意」「一致」。

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   まゝ事の飯(いい)もおさいも土筆かな   星野立子


 【参照】3月9日、鉄舟と西郷が駿府で会見(1868年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/29626503.html

 【参照】3月9日、篠田正浩の誕生日(1931年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/47318159.html

 【参照】3月9日、ガガーリンの誕生日(1934年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/40882019.html

 【参照】名古屋優勝は初マラソンの中村友梨香(2008年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/40890202.html

 【参照】名古屋マラソン、高橋尚子が10キロ手前よもやの失速(2008年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/40887607.html

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