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平成22年4月22日(木)昨日:首相「確かに私は愚かな総理かもしれません」。 「確かに私は、愚かな総理かもしれません」 21日の党首討論の冒頭、鳩山首相はこう語った。自民党の谷垣総裁が取り上げた米紙の報道を引いた言葉だったが、議場は野党議員らのヤジで騒然となった。 首相は沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題でも「愚直」という言葉を使い、謙虚さをアピールしたが、口ぶりとは裏腹に、発言の内容は「開き直り」「責任転嫁」の連発だった。 訪米中にオバマ米大統領と10分間の非公式会談しかできなかったことは、「政府の案が決まっていない段階で、あまり長い話をするよりも10分間が良いと、大統領が判断された」と、人ごとのように語った。 『 愚か者 』 近藤真彦 ※ 政治家が理想を語るのは差し支えないが、政策と理想とを混濁させてはならない。鳩山首相を見ていると、つくづく、正直者は政治家になってはいけないと言うことが了解できる。多くの有権者をミスリードする彼の言動は、小沢氏にとって正に“宇宙人”以外の何者でもないだろう。 4月22日は、新藤兼人の誕生日です。 ◇ 新藤兼人( 1912年生まれ ) 映画監督、脚本家、本名は新藤兼登、日本の自主制作映画の先駆者、近代映画協会会長、広島県名誉県民、映画に人生の全てを託した人。2010年5月16日にクランク・インする「一枚の葉書」を生涯最後の作品と決めた映画人。(10月、完成予定) 1912年、広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区五日市町)に生まれる。豪農の家に生まれたが、父が借金の連帯保証人になったことで破産、14歳の頃に一家は離散する。 1933年、尾道の兄宅に居候中に見た山中貞雄の映画『盤嶽の一生』に感激し映画を志す。1年半の自転車問屋の臨時雇いで金を貯め、刑事をしていた兄の紹介で京都府警の刑事の伝手を頼りに1934年、京都へ出る。 志望していた映画助監督への道は狭く、入ることが出来たのは新興キネマ現像部で、フィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせた。 目指した創造的世界とはかけ離れた、長靴を履いた水仕事を1年ほどする。撮影所の便所用に落とし紙にされたシナリオを見つける。映画が、シナリオから出来ているものと初めて知った。 1941年、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都に出向。溝口は俳優から演技を聞かれても「反射してください」と言うばかりで何も俳優に教えないため、俳優・スタッフ同様に新藤も反発していた。しかし、出来上がった作品を見ると感銘を受けた。伝手を頼りに溝口の内弟子になることになり、シナリオを1本書いて溝口に提出する。 溝口は、「これはシナリオではありません、ストーリーです」と酷評され、自殺を考える程の大ショックを受けた。スクリプターをしていた内妻の励ましで奮起し、劇作集を読みあさり再出発を誓う。この内妻は結核に罹り、貧しさの為ろくに栄養をつけることもできずに死去。このことは、後の初監督作品『愛妻物語』で描かれる。 1942年、情報局の国民映画脚本の公募に応募するが佳作に終わる。当選は、東宝の助監督・黒澤明の『静かなり』だった。 翌年、新藤の『強風』が当選。これを知った溝口監督から連絡があり、生涯ただ一度だけの祇園での御馳走にお呼ばれした。 1945年、宝塚海軍航空隊で終戦。宝塚歌劇団図書館にあった全ての「戯曲集」を読み終え、松竹大船に復帰する。同年秋に書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され、1947年のキネマ旬報ベストテン4位となり、初めて実力が認められた。溝口のために、溝口の戦後第1作『女性の勝利』(1946年)と『わが恋は燃えぬ』(1949年)を書く。 1947年、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表、大ヒットしキネマ旬報ベストテン1位を獲得、シナリオライターとしての地歩を固めた。 その後は吉村とのドル箱コンビで、『わが生涯のかゞやける日』(1948年)などのヒット作を連発。木下惠介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯!』を書く。 1949年、『森の石松』の興行的失敗等で松竹首脳らが「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」と難色を示す。新藤は作家の独自性を貫くため1950年、松竹を退社して独立プロダクション・近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立する。 1951年(39歳)、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たす。この自伝的な脚本はどうしても他人にやらせたくなかったと述懐している。この脚本を読んだ大映のスター・乙羽信子がどうしても妻の役をやりたいと申し出る。乙羽は同作品に主演し、これをきっかけに近代映画協会へ参加する。 また、大映に持ち込んだ『偽れる盛装』も1951年に大ヒットとなる。 1952年、戦後に初めて原爆を直接取り上げた映画『原爆の子』を発表する。 この頃より、主演の乙羽と愛人関係になる。新藤には妻子がいたが、「日陰の身でもかまわない」と言う乙羽は、売り出してもらった大映を辞め、新藤のいる近代映画協会へ入ることになる。 1953年、カンヌ国際映画祭に『原爆の子』を出品する。米国はこの作品に圧力をかけ、外務省が受賞妨害に工作を試みる。西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収されるなど、各国で物議を醸したが、「原爆許すまじ」という世界の声に支えられ各国で大きな反響を呼ぶ。 チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受け、世界における反核映画第1号となった。現在も、この映画はヨーロッパで度々上映されている。 自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家業は困難を極めたが、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表する。しかし、芸術性と商業性との相克に悩み続け、失敗と試行錯誤を繰り返した。同時期に、日本映画に衰退の陰りが見え大きな映画会社の経営も困難になり始めた。しかし、産業としての映画の衰退は、社会派映画や前衛芸術映画の躍進のチャンスでもあった。映画会社による映画館の独占支配体制が緩み、小さな独立系プロの製作する映画にも上映の機会が与えられるようになった。 ◇ 新藤兼人の執念としての『裸の島』 1960年に撮った台詞のない映画詩『裸の島』は資金がなく、近代映画協会の解散記念作品にと、キャスト2人、スタッフ11人で瀬戸内海ロケを敢行した。撮影期間1ヶ月で、映画をわずか550万円の予算で作り上げた。これにより限られた観客を相手に、極端に低い製作費で優れた作品を撮ることが可能であることを示し、大会社の資本制約から離れる事で、自由な映画表現と制作ができる事を証明した。 『裸の島』はモスクワ国際映画祭でグランプリを獲得し、新藤は世界の映画作家として認められた。また、モスクワ国際映画祭では、各国の映画バイヤーから次々に買い入れの申し入れがあり、最終的に世界62ヶ国に作品の上映権を売ることで、それまでの借金を返済できた。 『裸の島』の製作手法(オール地方ロケ、出演者及びスタッフがロケ地で合宿、スタッフ全員参加のミーティング、本来の持ち場を越えて意見交換 … )は、その後の邦画界におけるインディペンデント映画製作に多大な影響を与えた。 ◇ 乙羽信子の遺作となった『午後の遺言状』 老いをテーマとした『午後の遺言状』が、乙羽信子の遺作となった。体調を崩していた乙羽を気遣い、乙羽の出番は早めに撮り終えていた。 撮影から帰った新藤兼人を、正式に入籍(1978年)した音羽が「お帰りなさい」と優しく迎える。 「何ともいえない『お帰りなさい』なんですね。他の人では絶対出来ないんです」と、亡き妻を述懐する新藤兼人。 ◇ 新藤兼人のいのち・近代映画協会 新藤兼人。現在も現役で活躍、70年以上の映画人生、世界最長老の映像作家のひとり。 池広一夫、神山征二郎、千葉茂樹、松井稔、金佑宣、田代廣孝、田渕久美子らの門下生を輩出。近代映画協会は、1960年代に百近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も存続する。 長年の映画製作に対して、1996年に第14回川喜多賞、1997年に文化功労者(終身年金支給)、2002年に文化勲章授与。3度グランプリを受賞したモスクワ国際映画祭では、2003年に特別賞を受賞している。また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により、2005年に谷本清平和賞を受賞。 1996年、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみが、その年度で最も優れた新人監督を選ぶ「新藤兼人賞」を創設した。 ◇ 不正直者は警察官になってはいけません?(2010年4月22日) 交番に届けられた拾得物の現金約1500円を着服したとして、兵庫県警は21日、西宮署の巡査長・小松喬容疑者(27)を業務上横領容疑で逮捕し、発表した。 西宮署によると、小松容疑者は4月2日午後6時半ごろ、同県西宮市甲陽園西山町の甲陽園交番で勤務中、届けられた小銭入れの現金約1500円を横領した疑い。 「たばこを買うのに手持ちがなく、ちょっと借りるつもりだった」と容疑を認めているという。 小銭入れは近くの男児(6)のもので、3月下旬に路上で紐の部分を振り回しているうちに紛失したもの。これを拾った女性が交番に届け出たが、今月11日になって「持ち主がわかった」と、女性が再度交番を訪れたため、着服が発覚したという。 『 愚か者よ 』 唄:井上堯之 伴奏:宇崎竜童 ※ わずか1500円といえども、横領は横領なんだけども、日頃は身内に大甘な警察組織が、このように律儀に几帳面に罪を罪として糾弾する、その背景には一体なに事が存在するのやらと、あらぬ想像をしてしまいます。 ◇ 今日の誕生花・ヤマツツジ(ツツジ科) 花言葉は、「燃える思い」。 しんかんと火の島燃ゆる山躑躅 水原春郎 少し酸っぱく少しは甘くかみたりき ヤマツツジ燃え想いは咲けり 鳥海昭子 |

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