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平成22年5月31日(月)昨日:鳩山首相「信念もってがんばる」。 鳩山由紀夫首相は31日朝、社民党が連立政権離脱を決めたことについて「安全保障に関する基本的な考えが、残念ながら合わないということで、大変残念に思っている」と述べた。首相公邸前で記者団の質問に答えた。 鳩山内閣の支持率は、世論調査で17%に落ち込むなど下落し続けているが、首相は「信念を持って乗り切っていくしかない。国民の皆さんのために、しっかりとした政治を取り戻していくということで頑張る。この一点だ」と語り、続投に改めて意欲を示した。 ※ 鳩山首相の「信念」が如何なるものだったのか、全有権者の知るところとなった今日、来るべき参院選を戦うことは難しいだろう。この方は政治家ではなく、天衣無縫の夢想家だったのだ。戦略だとか、手練手管だとか、落としどころだとか一切頓着せず、ためらわずに自身の夢を語れる稀有のお方だったのだ。もはや下々の想像を遥かに飛び越えてしまった、越格の天上人であったのだ。畏るべし、鳩山御大尽! 今日5月31日は、クリント・イーストウッド 傘寿の誕生日です。 ◇ クリント・イーストウッド( 1930年5月31日生まれ ) カリフォルニア州、サンフランシスコ出身の俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家、 政治家。 俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演し、トップスターの地位を確立。監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー賞作品賞と監督賞を2度受賞する。 父クリントと母モーガンとの間に生まれ、スコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4ヶ国の血をひく。家系はメイフラワー号の乗員で港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを祖とする名家だが、幼い頃は世界恐慌の煽りを受け苦労する。 朝鮮戦争のさなか、1951年に陸軍に召集され、2年後の1953年に除隊。その後、サウス・カリフォルニアに移住。アルバイトの傍らロサンゼルス・シティ・カレッジの演劇コースを専攻。1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、当初は『半魚人の逆襲』『世紀の怪物・タランチュラの逆襲』などのB級映画の端役しか与えられなかった。 CBS『ローハイド』 TVドラマ『ローハイド』、2人の師との出逢い 1959年からCBSで放映された西部劇『ローハイド』で、ロディというカウボーイを演じる。ロディとはニックネームで、“荒くれ者、喧嘩早い(rowdy)”の意味だった。『ローハイド』は約7年間にわたり150話近く製作された人気シリーズであり、イーストウッドの知名度と人気は世界的に高まった。 1964年、セルジオ・レオーネ監督に招かれ、マカロニ・ウェスタンの嚆矢であり、その代表作とも言われる『荒野の用心棒』に出演する。 その後も『ローハイド』の撮影の合間を縫って、『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』と都合3作のレオーネ作品に出演。イーストウッドはレオーネを師と仰ぎ、レオーネの逝去まで交友を続けた。これらの映画の好評により、イーストウッドの俳優としての評価はヨーロッパが先行し、アメリカに逆輸入された形となった。 『マンハッタン無宿』で出逢ったドン・シーゲルと再びタッグを組んだ『ダーティハリー』で、イーストウッドは型破りな刑事ハリー・キャラハンを演じる。シーゲル作品として、最大のヒットとなり、イーストウッド本人もこの作品で人気アクション・スターとしての地位を確立する。 監督 クリント・イーストウッド 1968年、映画制作会社・マルパソプロダクションを設立。1971年、『恐怖のメロディ』で初監督。俳優業の傍ら『荒野のストレンジャー』『アウトロー』などの作品を立て続けに発表。監督業に進出した他の役者と違い、大作や賞レースに関わる作品への出演はせず、自らのプロダクションで製作した小規模ともB級とも呼べる作品でのみ主演し、監督業と俳優業とを両立させながら地歩を築いた。1987年の第45回ゴールデングローブ賞で、生涯の功績を称揚するセシル・B・デミル賞を受賞する。 1992年、師であるセルジオ・レオーネとドン・シーゲルとに捧げた“最後の西部劇”『許されざる者』を監督兼主演で制作する。 第65回アカデミー賞監督賞、作品賞を受賞、第50回ゴールデングローブ賞監督賞を受賞した。この頃から『マディソン郡の橋』『ミスティック・リバー』といった文芸性の高い作品も手がける。 2004年『ミリオンダラー・ベイビー』で2度目のアカデミー作品賞/アカデミー監督賞のダブル受賞を果たす。74歳という、最高齢での受賞記録を樹立したバイタリティは、アクション映画で培われたものであろうと賞賛された。 単に監督もできる俳優ではなく、アクション映画から文芸映画まで幅広くこなせる「優れた監督兼俳優」という評価を確立した。 2006年、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の2部作を発表。これはアメリカが日米戦争において最大級の痛手を受けた硫黄島の戦いを、日米双方の視点から2作に分けて描くという方法で製作された。『硫黄島からの手紙』は、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞作品賞・第32回ロサンゼルス映画批評家協会賞最優秀作品賞を受賞し、同年の賞レース最大の目玉として注目を浴びたが、アカデミー賞では音響編集賞のみの受賞にとどまる。2007年1月、『硫黄島からの手紙』でゴールデン・グローブ賞最優秀外国語映画賞を受賞。 2008年『グラン・トリノ』を撮って、「もう積極的に役は探さない。いまの映画の役は、みんな若い役者向けに書かれているから」と語った。 しかし、「演じたい役があれば俳優に戻ってくるかもしれない」ので、引退という発言は積極的には用いないという趣旨の発言もある。 彼が出演した映画作品のチラシは、ファンの間で往年の大スターであるスティーブ・マックイーンと双璧を成すほど人気が高く、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』『華やかな魔女たち』『奴らを高く吊るせ!』といった作品の初版チラシに至っては1枚で数十万円単位まで高騰しているものもある。 ◇ ゆく皐月 デニス・ホッパー 罷りけり(2010/05/30) 「ハリウッドの反逆児」と呼ばれ、映画「イージー・ライダー」で知られる米国人俳優デニス・ホッパー氏が29日(日本時間30日)、前立腺癌による合併症のため、米ロサンゼルスの自宅で死去した。74歳だった。監督や配給先とのトラブルでハリウッドを追放され、飲酒や麻薬に溺れながらも、1986年「ブルーベルベット」で復活した。ハリウッドの殿堂入りも果たす。知日家としても知られ、日本のテレビCMにも出演した。結婚すること五度、私生活でも話題をふりまいた人気俳優が逝った。 Dennis Hopper dead at age 74 ホッパー氏は、家族と友人に看取られながら静かに亡くなった。2009年10月に前立腺癌を公表し、同12月入院。2010年1月に癌が骨に転移し、周囲に余命わずかであることを明かしていた。気力を振り絞り、3月にはハリウッドの殿堂入り式典に出席した。 その際に、「ハリウッドはわが家であり、学校であった。人生のすべてを皆さんから学んだ。本当にありがとう」と万感の笑顔をみせた。一度は追放された映画界に深甚の謝意を込めた挨拶に、関係者の皆が胸を打たれた。 幼いころからハリウッドにあこがれ、高校時代から演技の勉強を始めた。1955年にテレビドラマでデビューし、同年「理由なき反抗」で映画初出演。共演のジェームズ・ディーンと友人になり影響を受けた。ディーンの死後、監督と意見が合わず、大喧嘩をしてしまう。ハリウッドからは事実上追放された。それでも映画製作の意欲を失わず、若者たちの放浪の旅を描いた「イージー・ライダー」(1969年)で監督、脚本、主演の3役に挑戦。低予算ながら世界中でヒットし、アメリカン・ニューシネマの旗手となった。 自身が監督した1971年「ラストムービー」の配給を巡って映画会社と対立、再び表舞台から遠ざかった。飲酒と麻薬の中毒が悪化し、入退院を繰り返しながらも、映画界に復帰する。1986年「ブルーベルベット」で狂気の男フランク役を務め、ほとんどのセリフの間に“FUCK”と叫ぶ異常な演技で注目され、復活を果たした。 C級映画の出演が多く、“反逆児”のイメージは晩年まで続いた。 勝新太郎とは友人だった。 ◇ 今日の誕生花・タニウツギ(スイカズラ科) 花言葉は、「豊麗」。 谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女 強引と思うばかりに蜂もぐる 花筒ゆらぐタニウツギかな 鳥海昭子 |

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