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◇ 愛知県知多郡美浜町 野間大坊 (大御堂寺) 参拝料:500円(本殿) 駐車場:無料 電話:0569-87-0050 知多四国第50番&51番 東海三十六不動尊第21番 尾張三十三観音第8番 野間大坊(大御堂寺)は、役行者の開創、行基の開基と伝わる名刹で、白河天皇の時代に一山を再興し、勅願寺とされて大御堂寺と名付けられました。池禅尼ゆかりの寺としても知られ、建久元年(1191年)に頼朝によって禅尼の念持仏が奉安されたと伝えられています。境内には、義朝、鎌田正清の墓、池禅尼の供養碑などが残され、悲運の武将を悼む人々のよすがになっています。 大御堂寺は、源頼朝が亡父の菩提を弔うために建久元年(1190年)に、開運延命地蔵と不動明王、毘沙門天を奉安し七堂伽藍を造営。その後も豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めた。 大御堂寺は、寺伝によると役行者の開創、行基の開山。白河天皇の承歴年間に勅願寺として大御堂寺と命名されたとしています。『吾妻鏡』文治2年(1186年)閏7月22日条には、平康頼が尾張守であった時、源義朝の墓が荒廃していたので、水田三十町を寄進し小堂を建て6人の僧に不断念仏を修させたとあります。また建久元年(1190年)、源頼朝が上洛の途中に源義朝の廟所に詣でています(『吾妻鏡』建久元年10月25日条)。寺伝によると、この時に鎌田正清、平康頼、池禅尼の塔を建て供養したのだと伝承されています。 義朝は小太刀なりともと叫びつつ死んだという伝承から、義朝の墓にはたくさんの木太刀が供えられています。義朝の墓を中心に囲むように、鎌田正清の墓とその妻の碑、頼朝の命を助けた清盛の継母池禅尼の墓があります。境内には、平康頼の墓、義朝の首を洗い清めたたという首洗い池があります。 大御堂寺では義朝の最期の絵解きが行われています。 平治元年(1159年)12月、平治の乱に敗れた源義朝は再起を図るため東国へ落ちました。平家軍の追撃や落ち武者狩りを振り切り、ようやく尾張にたどり着いた義朝は、乳母子の鎌田正清(正家、政家、政清とも)と共に、累代の家人で正清の妻の実家である尾張の内海荘司・長田忠致(ただむね、正清の舅)の屋敷に逗留します。 しかし、変心した忠致は、入浴中の義朝を襲ってこれを殺害、鎌田をも饗宴と見せかけて討ち果たします。以後、源氏の勢力は大きく後退し、二十年におよぶ雌伏の時期を迎えることになるのです。 名鉄野間駅の東数百メートルの山中に鎮座する法山寺。その裏手にある「源義朝公横死の湯殿水跡」。左は湯殿跡、右は湯殿水跡の碑。『平治物語』によると、刺客が湯殿になだれ込んだ時、義朝は「鎌田はなきか」と叫んでこと切れた。これを聞いた鎌田は、すぐに駆けつけようとしたが、後ろから忠致の子景致に首を斬りおとされたと言う。 義朝は謀殺される間際、「我に小太刀の一本でもあれば」と言ったと伝えられており、廟には慰霊のため木太刀を献ずる習わしがある。奉納した人はすべての願いがかなうといわれる。 鎌田正清は義朝の乳母子で、その妻は長田忠致の娘。『平治物語』によると、正清が死んだとき、妻は遺骸にとりつき、「われは女の身なれども、全く二心はなきものを、いかにうらめしく思ひ給ふらん」といい、夫の刀で胸元を刺し貫き自害したと伝わる。 『愚管抄』では、忠致が湯殿で義朝を暗殺しようとしていることに気づいた正清が、ここで討たれるよりは自害して果てるべきであると進言。義朝の首を討ち落としたのち、自らも自害して果てたと述べられています。 殺された義朝の首は翌年7日に獄門にかけられた。享年三十七。 『平治物語』によると、忠致は義朝追討の恩賞として、名ばかりの壱岐守に補任された。その後、平氏追討戦に活躍したが、頼朝にさんざん利用されたあげく磔に処されたと言う。安養院に近い密蔵院の裏山に「磔の松」が残る。その近くには長田忠致の屋敷跡といわれる場所がある。 長田忠致の辞世 「ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞ賜る」 『平治物語』によって大筋を追ってみます。長田父子は、義朝に入浴をすすめて油断させたところを、だまし討ちします。平家の恩賞を受けるために義朝の首を都に持参し、忠致は壱岐守に、景致は左衛門尉に任じられます。しかし、それを不服として尾張国も賜りたいと繰り返し願ったため、平家からは相伝の主人と自分の婿を討った大罪人として、罪科に処すると脅されました。長田父子は恐れをなし、尾張国に逃げ帰ります。 古活字本『平治物語』には、その時に長田が残した狂歌として、「落ち行けば命ばかりは壱岐守身の終りこそきかまほしけれ」で結び、その狂歌の落ちとして次の話につなげます。 長田父子は鎌倉に参上し、自らの罪過を訴えると、頼朝は勲功をあげれば罪を許し恩賞として美濃・尾張を宛がうと約束します。長田父子はこの約束に歓喜し、平氏追討に軍功をあげました。しかし平氏滅亡後、頼朝は約束通りに「美濃・尾張(身の終わり)」を賜うとして、長田父子を義朝の墓前において磔にします。長田の辞世の歌が、「ながらへて命ばかりはいきのかみ身のをはりをば今ぞ賜る」。「身の終わり」は「美濃・尾張」にかけられ、「壱岐」は「生き」にかけられています。 ◇ もう一つの、野間の「主殺し」 野間大坊と密蔵院の中間に位置する安養院は、羽柴秀吉に敗れた織田信長の三男・織田信孝が自害した場所。 信長が本能寺の変で討たれた後、信孝は柴田勝家と組んで秀吉と争う。勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ自害。信孝は降伏する。野間に流された信孝は兄・信雄(のぶかつ)の命により自刃する。辞世の句には秀吉への恨みが込められている。 「むかしより主をうつみの野間なれば報をまてや羽柴ちくぜん」 これは、主である義朝を討った忠致と、秀吉にとって主筋である自分を自害に追い込んだ秀吉をかけている。「うつみ」も周辺地名の『内海』と『討つ身』とをかける。 ◇ 実に不謹慎なる江戸川柳 「義朝は抜き身を下げて討ち死にし」 「義朝は湯潅を先にしてしまひ」 ◇ 本堂に出没する得体のしれぬ御老人の正体は? 本堂は、参拝するのみで入ることは出来ません。実態は旧本堂と思われる。大きな賽銭箱に隠れるようにして、一人の御老人がしゃがみ込んでいた。我々がお参りをしていると、やおら立ち上がり、面白くも怪しげなる話をし始めた。一行の中で悪相と思われる御仁に、あんたは奥さんに大事なことを言わずに隠している、と言うではないか。言われた当人は、一瞬、言葉に詰まる。虚弱体質と見られた御仁は、あんたはストレスを抱えやすく胃痙攣持ちと、的を得た指摘をする。だが、なんとも胡散臭い、臭すぎる、風呂にも入ってないみたい。でも、やたらと寺伝に精通している。 ある者は、四国遍路に遍路崩れと呼ばれる手合いが居て、怪しげなる振る舞いをしている。ここも知多四国の巡拝があるので、そういう者ではないかと推察した。その後、本殿にて住職による「絵解き」を拝聴した。義朝の無念の最期、忠致の因果応報の最期を、若干、名調子とは言いがたい口調で、面白く絵解きしてくれる。聞き終わって、悪相と思われた御仁が住職に訊ねた。向こうのお堂に居るお年寄りは誰ですか? 住職答えて曰く、うちの老住職です。失礼なことを申し上げたと思いますが … 。 ※ 「絵解き」に用いられる絵はレプリカだが、本物は、尾張初代の徳川義直が狩野探幽に描かせて、この寺に寄進したものだと言う。 ※ 坊主頭愛好会小旅行 2010/06/14〜15(愛知の寺院巡りと日間賀島) 犬山 瑞泉寺 → 八事 興正寺 → 野間大坊 → 日間賀島 すず屋海游亭(宿泊)
盛田・味の館(盛田昭夫の造り酒屋、味噌、醤油) → 常滑 やきもの散歩道 (日間賀島への高速船は、高周波的騒音&震動&油臭で、かなり参ります。) |
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