今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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8月5日、澁澤龍彦忌

 平成22年8月5日(木)昨日:家族のきずな「弱まっている」81%…。

 地域社会や家族に関する全国世論調査(面接方式)で、家族の絆やまとまりが「弱くなってきている」と思う人は81%に達した。 2008年調査の89%からは下がったものの、依然として高い水準。地域住民の支え合いは、「弱くなってきている」が78%に上った。

 親類とどの程度の付き合いをしているかを聞くと、「礼儀を欠かない程度」50%、「親しく」36%、「あまり付き合っていない」12%となった。近所づきあいは、「礼儀を欠かない程度」59%、「親しく」22%、「あまり付き合っていない」18%。地域に困りごとの相談にのってもらえる人が「いる」と答えた人は61%だった。 一人暮らしになり、面倒をみてくれる人がいなくなる不安を「感じている」は52%で、「感じていない」47%を上回った。

 ※ かつて、「21世紀は心の時代」と言うスローガンがあった。だが、今では明らかに「無縁社会」に成り下がっている。私たちは、精神の営みから目を背け、日々の仕事に埋没したまま、今日を明日へとやり過ごす。徒に消耗する自己に失望しながら、出口の無い時代を彷徨する。それでも、私たちは生きてゆく、今日を明日へとつなぐため。

 明くる日は「明るい日」なり今しばし 生きてみむとて早や夜の秋



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 8月5日は、澁澤龍彦忌です。

 ◇ 澁澤龍彦(本名は龍雄、1928年〜1987年)

 仏文学者、評論家。 旧制の東京府立五中(現・東京都立小石川高等学校)から、1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に進む。理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。 中学〜高校時代には勤労学徒として動員され、板橋の凸版印刷と鋳物工場、八丁堀の製本屋、赤羽の兵器補給廠、大宮の工機部(蒸気機関車の修理工場)で働く。大宮の工機部では艦載機の機銃掃射を体験する。

 ドイツ語が不得手だったためもあり、敗戦に伴って文甲(文系英語クラス)に転じる。旧制浦和高校の文丙(文系フランス語クラス)は戦時中に廃止されていたが、澁澤の一級下から復活したため、一級下の講義に潜り込み、平岡昇からフランス語の手ほどきを受けた。このころの友人に出口裕弘や野沢協がいる。またアテネ・フランセに通ってフランス語を習得。みるみる上級クラスに上がっていったという。このころ、神田の古書店街でダダイスムやシュルレアリスム関係の仏語の原書を渉猟し、アンドレ・ブルトンやジャン・コクトーに熱中する。

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 1950年、2年の浪人生活を経て東京大学文学部に入学。 1974年2月の「週刊朝日」の取材に対して、「入学試験なんてインチキなものだと信用していなかったが、やはり三度目に入ったときはうれしかった」と答えている。若干の社会人経験を積んだためもあり、澁澤当人は自筆年譜の中で「周囲の学生が秀才馬鹿に見え、研究室の雰囲気にも馴染めなかった」と語ったが、当時の友人の証言によると、澁澤はこのころ研究室には頻繁に出入りしていたともいう。

 1953年仏文科を卒業。卒論は『サドの現代性』だった。サドをテーマにした論文は自分が最初で最後かもしれないと語っている。澁澤の執筆当時はサドは文学者としての評価は芳しくないばかりか俗悪的なポルノ作家との認識が少なくなく、学者もサド研究に好意的ではなかった。そんな状況での澁澤の論考は、当然のようにアカデミズムから疎外される。澁澤は卒論を提出した後に、大学から取り戻したという。このころ、新聞社や出版社の就職試験に失敗している。

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 サド裁判:1961年、猥褻文書販売および同所持の容疑で現代思潮社・社長石井恭二と共に在宅起訴され、以後9年間に渡りいわゆる悪徳の栄え事件の被告人となる。埴谷雄高・遠藤周作・白井健三郎が特別弁護人、大岡昇平・吉本隆明・大江健三郎・奥野健男・栗田勇・森本和夫などが弁護側証人となった。澁澤はこの裁判について、「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやる」との方針を立てていたため最初から真剣に争う気がなく、「寝坊した」と称して裁判に遅刻したことまであったため、弁護側から怒りを買うことがあった。

 1962年に東京地裁で無罪判決が出たが、検事控訴で高裁から最高裁まで争った末、1969年に澁澤側の有罪が確定し、7万円の罰金刑を受けた。このとき澁澤はマスコミの取材に答えて「たった7万円、人を馬鹿にしてますよ。3年くらいは(懲役刑を)食うと思っていたんだ」「7万円くらいだったら、何回だってまた出しますよ」と語った。

 1983年頃、牝の兎を飼い始める、名は「ウチャ」。 澁澤は幼い頃から喉が弱く、知人の間では特徴的なかすれ声で知られていた。下咽頭癌の発見が遅れたため、1986年に声帯を切除し、声を失う。 入院生活の最中も『高丘親王航海記』を書き継ぎ脱稿し、次作『玉蟲物語』を構想していたが、1987年8月、病床で読書中に頚動脈瘤破裂により逝去。文光院彩雲道龍居士。

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 1959年に現代思潮社から、サドの『悪徳の栄え(続)』を翻訳出版したが、1960年4月に、同書が性表現を理由に発禁処分を受ける。その際、三島由紀夫から葉書で「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」と激励の言葉を贈られる。エロチシズムを追究し、沼正三のSM小説『家畜人ヤプー』を絶賛した事でも知られる。 難解だといわれるバタイユ『エロティシズム』の邦訳の中でも、澁澤訳は読みやすいと定評がある。



 ◇ 武蔵川理事長が「辞意」一転、復帰宣言(2010/8/5)

 日本相撲協会の武蔵川理事長(62)(元横綱三重ノ海)が5日、東京・両国国技館で記者会見し、同日付で理事長に復帰したことを明らかにし、「今後は協会員全員で一心同体で改革にあたり、協会再生のために頑張りたい」と、当面は同職にとどまる考えを明らかにした。 武蔵川理事長はこの日開かれた臨時理事会に出席。弟子の野球賭博関与による謹慎に加え、体調不良による療養のため、名古屋場所前の7月4日に開かれた理事会以来、久々に公の場に姿を見せた。

 武蔵川理事長は、野球賭博問題など一連の不祥事の責任や自身の体調面の不安などを理由に9月の秋場所(12日初日・両国国技館)までに辞任する意向を複数の協会幹部に伝えているが、この日は辞任表明は行わなかった。

 記者会見で武蔵川理事長は、謹慎期間中の7月12日の精密検査で胃癌が見つかり、21日に手術を受けたことを正式に発表。理事会でも出席者に病状を説明したという。自身の今後の進退については、「とにかく今は協会再生に向けて協会員全体でしっかり難局を乗り切るために、色々な意見を改革に向けてまとめ上げていかないといけない」と述べるにとどまった。 外部理事の村山弘義理事長代行(73)(元東京高検検事長)は5日で代行職を外れる。



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   ◇ 今日の誕生花・クサキョウチクトウ(ハナシノブ科)

   花言葉は、「同意」。 (別名:オイランソウ、花魁の白粉の香とか)

   藪の前草夾竹桃花ざかり   瀧井孝作

 しなやかに確かめあいつつ揺れているクサキョウチクトウ香にたちながら 鳥海


 【参照】8月5日、第1回遣唐使(630年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/15631071.html

 【参照】8月5日、岩波書店創業(1913年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/49124832.html

 【参照】8月5日、マリリン・モンローの命日(1962年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/35348904.html

 【参照】8月5日、おぎょん(2006年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/15631322.html

 【参照】8月5日、「宮崎アニメコンサート」(2008年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/43915553.html

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