今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成22年8月19日(木)昨日:民主代表選、小沢氏が出馬を検討、混迷の民主。

 民主党の小沢一郎前幹事長は18日、9月の党代表選について、小沢グループ以外からの幅広い支持が得られることを条件に出馬を検討する考えを周辺に伝えた。 菅首相はすでに出馬の意向を明らかにしており、小沢氏は党内の動向を慎重に見極め、来週にも最終判断する見通し。

 出馬の条件として、小沢氏は具体的に、党内最大の約150人を擁する小沢グループを固めた上で、「旧民社党系や旧社会党系の支持が得られるなら考えてもいい」と周辺に説明した。 また、小沢氏は同日、長野県軽井沢町で19日に開かれる鳩山グループの研修会に出席する意向を鳩山氏側に伝えた。小沢氏はこの場で、自らの出馬を支持する声がどの程度広がるかを見極めたい考えとみられる。

 周辺は、小沢、鳩山両グループ、旧民社党系、旧社会党系などとの連携により、国会議員の過半数の支持を固められると判断。政策としては、自ら策定に携わった昨年の衆院選政権公約の実現を訴えるほか、参院選で大敗した菅執行部では次期衆院選で勝利できないと主張するとみられる。 ただ、鳩山氏や旧社会党系の輿石東参院議員会長は、挙党態勢構築を条件に首相続投支持を明言している。また、小沢グループ内にも、小沢氏の政治とカネの問題に対する世論の批判が厳しいことなどから、出馬に向けた環境整備は容易でないとの見方がある。

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 ※ これで菅執行部退陣ならば、自民党の末期現象に酷似する。ほとほと小沢氏は、乱世に生きがいを感じる御仁のようだ。国家の政治よりも、自身の戦略を重視するタイプだ。政治とカネの問題で退いた者が、何食わぬ顔で再登場するのでは、有権者の支持は得られまい。



 1948年8月19日、東宝争議・砧撮影所に米軍介入、戦車7台、飛行機3機投入。

 第3次東宝争議:砧撮影所に立てこもる組合員2500人に対し、東京地裁が撮影所明渡しの仮処分を執行するが、米軍の戦車7台・飛行機3機などが投入された。 東宝争議とは、1946年から1948年にかけて三次にわたり東宝で発生した労働争議を言う。特に1948年の第3次争議は、警察およびアメリカ軍の介入によって解決されたが、労働運動に米軍が介入したことが後に波紋を広げる。

 昭和20年(1945年)12月、東宝では、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝従業員組合(従組)が結成された。従組は全日本産業別労働組合会議にも加盟し、会議の申し合わせなどによってストライキを繰り返した。もともとが他の映画制作会社よりも開放的な社風だったこともあって(今井正や山本薩夫など共産党員が戦争中から所属していた)、労働運動は一挙に盛り上がり、5600名の組合員を持つ巨大勢力となって会社と対決するようになった。

 昭和21年(1946年)3月に第1次争議、同年10月に第2次争議が起こった。ストによって映画制作はままならず、東宝の製作本数は18本で、他社の半数までに落ち込んだ。 同年11月、ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の十大スターが十人の旗の会を結成して組合を離脱する。渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。 昭和22年(1947年)3月、離脱した東宝組合員が「新東宝」を設立する。

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 東宝は健全な運営が難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組との直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎、久我美子、若山セツ子、岸旗江、伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用する。 昭和22年(1947年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が東宝に追放令を発し、経営陣は入れ替わった。社長の田辺加多丸が会長に就任し、新社長には外部から元東大教授の渡辺銕蔵を招聘した。渡辺銕蔵は「反共の闘士」で、労務担当重役や撮影所長に強硬派を据えた。

 昭和23年(1948年)4月8日、東宝経営陣は、東京砧撮影所従業員270人を突然解雇。さらに、人員整理のため1200名の解雇計画を発表。 同年4月15日、従組は、カメラや資材を管理下においてボイコットし、東京砧撮影所を占拠し、正面入口にバリケードを作って立てこもった。これが第3次争議の始まりとなる。 5月1日、メーデーの日に会社は休業を宣言。従組は東京地方裁判所に会社の営業再開を求める仮処分を申請したが、会社側も占有解除を求める仮処分を申請し対抗。8月13日、東京地裁は会社の申請を認め、占有解除の仮処分執行を決定する。 1948年8月14日、裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、従組800名が立てこもって入場を拒否。

 8月19日、官憲による仮処分執行前に、労働者2500人が砧撮影所に立てこもる。五所平之助、今井正、楠田清、亀井文夫などの映画監督、岩崎昶、伊藤武郎などのプロデューサー、山形雄策などの脚本家、宮島義勇などのカメラマン、ニューフェイスの若山セツ子、久我美子、中北千枝子といった俳優も数多く参加した。

 各セットの小屋の前には、不燃塗料を詰めた大樽を複数並べ、各樽の上には零戦のエンジンを搭載した特撮用の大型扇風機を持ち出してきて設置。警官隊が突入してきた際、風圧で砂利やガラス片、塗料を飛ばすものであり、実際にこれは使用された。屋根や窓から、木片やガラス球を詰めた袋を落とす仕掛けも作られていた。電流を流した罠も設置された。

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 同日早朝、アメリカ軍第8軍第1騎兵師団司令官ウイリアム・チェイス少将は、カービンで武装したアメリカ軍MP150人、歩兵自動車部隊1個小隊、装甲車6両、M4中戦車3両、航空機3機を率いて砧撮影所を包囲。これらの部隊は、H.F.T.ホフマン代将指揮のアメリカ軍地上部隊だった。ウイリアム・チェイスは航空機から指揮を執った。

 同日午前8時30分、警視庁は仮処分の執行援助の為に2000名の警官隊を出動させ、砧を包囲。小田急線成城学園前駅での乗降を禁止し、砧撮影所に通じる道を閉鎖。 午前9時30分、成城警察署署長もしくは執行吏と会社側代理人の弁護士が、アメリカ軍トラックに乗り、10数人の警官隊に守られながら、砧撮影所の正門まで行き、従組に執行吏による仮処分受諾を要求し、従組代表と交渉。

 同日午前10時30分、武装警官隊2000人が、日本の戦車に先導されて、砧撮影所正門前に展開し始めた。亀井文夫が、砧撮影所正門前の警官隊に向かって、「正義は暴力によっては踏みにじられない」と書いた紙を掲げた。その後、従組は、軍に包囲された以上、力での抵抗は不可能と判断し、職員会議を開いて仮処分の受け入れを決定した。 午前11時過ぎ、組合員2500人は互いに腕を組み、インターナショナルの歌を歌いながら撮影所を退去、演劇研究所に撤退した。続いて執行吏が所内に入り、仮処分執行の公示書を掲示した。

 同年10月18日、組合最高幹部の伊藤武郎、宮島義勇は、渡辺社長らと会談。ここで、組合幹部20名の自主的な退社と交換条件で、解雇されていた残り250人の解雇を撤回することで合意がなされた。さらに、大規模な人員整理の凍結などが認められ、組合側と会社側による覚書の調印によって、ようやく第3次東宝争議は正式に決着する。 昭和25年(1950年)東宝は、東宝争議で解雇が撤回された200人を、レッドパージという形で解雇する。

   最高司令官マッカーサーの野心

 最高司令官マッカーサーは、翌年に控える米大統領選挙に共和党から出馬するつもりで、米国民の視線を気にしていた。当時共和党は労働組合が大きな支持基盤となっており、日本の労働運動を露骨に弾圧して評判を落としたくなかったため、スト決行の直前まで、直接動くことはなかった。まして、軍を出動させることはもってのほかであった。 しかし、6月の共和党大統領候補の予備選挙でマッカーサーは惨敗し、候補に選出されなかった。この時からマッカーサーは米国民の目を気にせずに行動し始め、東宝争議はその時期に重なって強制解散させられたものと言われる。

   低迷が続いた東宝

 争議後、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉監督らは、東宝で映画製作ができないため、退社して「映画芸術協会」を設立。新東宝、大映、松竹といった他社での仕事を余儀なくされた。また、藤本真澄らプロデューサーも退社し、個人プロダクションを設立しての映画製作に当たった。相次ぐ人材の流出に悩まされた東宝は争議の後、数年間は低迷した。東宝が黄金時代を迎えるのは、東宝重役の森岩雄が公職追放解除となって東宝に戻り、黒澤、成瀬、藤本らが復帰した1950年代中頃からのことだった。

   知られざる第4次東宝争議

 第4次東宝争議は、参加人員が全国の日本映画演劇労働組合(日映演)の東宝分会で約180名、砧撮影所で140名と、第3次までの東宝争議と比べて少ないために、一般にはあまり知られていないが、1950年5月17日から同年12月29日まで続いた。 1948年に第3次東宝争議が終結した後も、東宝は、社内の派閥や新東宝との不調和によって赤字を増やし、1950年1月末の借入金その他の債務は約13億円、赤字は1億5000万円にも及んでおり、新たな人員整理の必要性に迫られていた。



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   ◇ 今日の誕生花・ナス(ナス科)

   花言葉は、「つつましい幸福」。

   妻呼ぶに今も愛称茄子の花   辻田克巳

 つつましいこの幸せよ ナスをとる鋏の音が空に響けり  鳥海昭子

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 【参照】8月19日、俳句の日
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/17526342.html

 【参照】8月19日、警察手帳交付の日(1874年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/44134759.html

 【参照】8月19日、8月クーデター(1991年)
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/35760117.html

 【参照】8月19日、立浪和義の誕生日
 http://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/49205166.html

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