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平成22年9月12日(日)昨日:モスク賛否デモ、米国分断の「9・11」。 米同時多発テロから9年となった11日、ニューヨークの現場「グラウンド・ゼロ」周辺では、近くで建設が計画されているイスラム教礼拝施設モスクに対する賛成、反対派がデモを行い、互いに非難し合った。米国の団結を訴えるはずの「9・11」は、一転、分断の一日となった。 11日、グラウンド・ゼロに隣接する公園で被害者を悼む追悼式典が終わると、イスラム教への見方をめぐり、賛成派が「信教の自由」を訴え、反対派は「イスラム教はテロ集団」などと気勢をあげた。 一方、11日にイスラム教の聖典「コーラン」を燃やすとし、注目を集めたフロリダ州のキリスト教会の牧師はニューヨーク入りしたものの、計画は実行しなかった。だが、米メディアなどによると、テネシー州スプリングフィールドで別の牧師がコーランを焼却。この牧師は「コーランは愛ではなく、憎しみの本である」と訴えていると伝えられている。 また、ニューヨークのデモ現場周辺や、首都ワシントンでもコーランを破るなどの事例があったという。 ※ モスクを建設するのに、なぜ「グラウンド・ゼロ」近くを避けることができないのか? 宗教家が他宗の経典を焼却するメリットとは、一体なんなのか? 賛成・反対の議論は大いに結構だが、なぜ憎しみのぶつけ合いしか出来ないのか? ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じ唯一神を崇拝する教えのはずだ。エルサレムの1キロ四方の城壁の中に、三つの宗教の聖地が混在する。 神は、決して憎しみあうために人をお造りになったわけではなく、互いに助け合い、愛し合うためにお造りになったのだ。 人が争いあう時、その罰は両者に下される。 1913年9月12日、「都新聞」で中里介山の『大菩薩峠』が連載開始される。 ◇ 中里介山(1885年〜1944年) 本名は弥之助。東京都羽村市生まれ。父の家業不振のため苦しい少年時代を送る。小学校高等科卒業後上京。電話交換手からのち小学校教員となる。この間、キリスト教と社会主義の影響を受ける。1905年(明治38年)、白柳秀湖らと雑誌「火鞭」を創刊。同誌に短編「笛吹川」を発表。翌年「都新聞」に入社。1909年(明治42年)、同紙への連載小説「氷の花」をかわきりに「高野の義人」など数々の作品を掲載。1913年(大正2年)「大菩薩峠」の連載を「都新聞」で開始。 「大菩薩峠」はこの後、掲載紙を変えながら断続的に1941年(昭和16年)まで書き継がれる。しかし長大な作品(41巻)は作者の後半生を呑み込み、なお未完に終わった。1919年(大正8年)、「都新聞」を退社。旺盛な執筆活動を続けながら、道場や私塾経営のほか「隣人之友」をはじめ各種雑誌の発行を手がける。生涯を通じてトルストイの影響を強く受けたといわれる。 『大菩薩峠 甲源一刀流の巻』 中里介山 この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の境に参入するカルマ曼陀羅の面影を大凡下の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、一染の好憎に執し給うこと勿れ。至嘱。 著者謹言 一 大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。 標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。 ※ 始めから「絶後の輪郭」を覚悟して書き出した『大菩薩峠』だが、いかにも長すぎた。確かに人間の抱える「業」とは果てしもないものだが、「カルマ曼陀羅の面影」が冗長に過ぎた恨み、無きにしもあらず。 『生前身後の事』 中里介山 小生も本年数え年五十になった、少年時代には四十五十といえばもうとてもおじいさんのように思われたが、自分が経来って見るとその時分の子供心と大した変らない、ちっとも年をとった気にはなれない、故人の詩などを見ると四十五十になってそろそろ悲観しかけた調子が随分現われて来るけれども、余はちっとも自分では老いたりという気がしないのみならず、それからそれへと仕事が出て来てどうしてどうしてこれからが本当の仕事ではないか、と、思われる事ばかりだ、瘠我慢にいうのではない、自分は五十になって老いたりという気がしないのみか若いという気もしない、子供の時と特別に変ったようにも思われない、今の自分としては殆んど年齢を超越してしまっている。 これは一つは自分が未だ嘗て家庭というものを持たず、自分の肉体の分身に対する愛情という経験が無いというのも一つの理由であるかもしれない、何れにしても自分はまだ死に直面しているという気分は毛頭ないけれども、ここに五十になった紀念の意味で少々死後のことを書いて置いて万々一の用心にし、心のこりを少しでも少なくして置きたいものと思うことは無用でもあるまい。 利休が旺んな時代に、これも並び称された無量居士という隠士は死の直前に於て、それまでに書いた自分の筆蹟類をすっかり買い集めてそれを積み上げて火をつけて焼き亡ぼして往生したということだが、自分もそういうことが出来れば非常に幸だと思っているが、そういうことは出来ない、事と次第によっては死んだ後こそ愈々世間の口が煩さくなるようになるかも知れぬ、そこで文字に就いては死んだ後までも相当の心遣いを残して置かなければならないことは、さてさて業である。 そこで自分は遺言のつもりで申し遺して置きたいことがある、文字についてばかりではない、自分の有形無形に遺される処のものに就いてここに少しばかり書いて置きたいものだ。 ※ 50歳で死後の事を書き遺す、そんな時代であったのだ。 『余は大衆作家にあらず』 中里介山 大衆という文字はいつ頃はじまった、いつ頃誰によって称え出されたものか知れないが、少くもここ十年以前には大衆文学なんぞというが如き文字は文学史にも新聞紙上にも見えなかったものである。 そこで、この十年以内に多分誰れかによって称え出されたものと思うが、それは誰れが何時称え出したかということは分らないが、他から命名されたものでなく、彼等文筆者流のグループの間から生み出されたものに相違ないと思う、今では、大衆文学なるものが、かなり一般的になって、そうして文学史上でもこれが為に幾ページかの線を劃さねばならぬほどになった、一般的にももう大衆文芸大衆文芸とわけもなく口の端にのぼせられるようになってしまった。 ところで、この大衆文学とか大衆文芸とかいう大衆の文字は一体何を意味するのであろうか、それがさっぱりわかっていない、大衆といえば仏教の方では古来一つの熟字になっていて一つの寺院の中の坊さん全体という意味に使われているが、しかし昔の漢籍の中にも大衆という文字が使われていないこともないが、今日いう処の大衆という意味はそういう意味ではなく、多分大多数という意味に使われているらしい、そこでその下へ文学という文字をくっつけて見ると、所謂大衆文芸というものは大多数文芸というような意味になるのであると思うが、さてここでまた問題なのは大多数をどうしようという意味の文芸なのか、大多数に読んで貰うという意味のものか大多数に読まれるという意味のものか、また大多数に調子を卸ろして大多数に媚びて見せてやろうというのか、大多数を導いて向上せしめようというつもりか、その辺甚だ曖昧千万である。 曖昧千万なのはそれのみではない、一体大衆文芸という、つまり大多数文芸というものがありとすれば、一方に何か少数文芸というようなものもなければなるまい、そうでなければ特に大衆などと銘をうつ必要はあるまい、そこで彼等に云わせると大衆文芸に対して少数文芸とは云わないが、別に純文芸とか、純文学とかいうものがあるのらしい、一方に純文芸なるものがあるから、それと対立差別する為に大衆文芸なる名称が与えられたのだということに彼等の分類と建前が出来上っているようである、同じ芸術のうちでも、美術の方では特に声を大にして大衆美術だの純正美術だのという事を決して云わないが、日本の文芸だけがムキになってそれを強調している。 ※ 「純文学」という呼称は、何やら気品を欠くものがある。 作家は誰でも、自分の書きたいものを自分の書きたいように書くのみ。 それ以外は皆、売文業者とでも呼べばいいのではないか。 ◇ 今日の誕生花・ツリフネソウ(ツリフネソウ科) 花言葉は、「安楽」。 瀬は迅し釣舟草の揺れもせず 森田 峠 安らかな記憶にありて藪陰の ツリフネソウとふるさとの家 鳥海昭子 ※ 花を帆かけ舟に見立てて吊舟草と呼ぶ。生け花で使う舟型の花器とも。 |

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