|
平成22年11月4日(木)昨日:駐ロシア大使が一時帰国、北方領土訪問に対抗。 政府は2日、ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土の国後島を訪問したことに対し、河野雅治・駐ロシア大使を一時帰国させることを決めた。 前原外相が同日の記者会見で「ロシアの事情を聞くため」として発表。帰国期間は未定で、事実上の対抗措置として抗議の意思を示す狙いもある。河野大使は3日午後にも帰国し、菅首相や外相らに訪問の経過などを報告する。 1922年11月4日、ツタンカーメン王の墓の入口が発見されました。 ◇ ハワード・カーター ( Howard Carter、1874年〜1939年 ) イギリス・ケンジントン生まれのエジプト考古学者でツタンカーメン王の墓を発見。エジプト考古学の大家であったフリンダース・ピートリー卿の下で学ぶ。 1891年、17歳のとき遺跡発掘現場のスケッチ担当としてエジプトへ赴く。イギリスでは高い教育を受けなかったものの、詳細な模写や考古学への情熱が高く評価され、1899年から1903年までエジプトの遺跡監督官を務めた。その後、彼の気難しい性格が禍して、30歳で遺跡監督官の地位を失うが、その後は考古学者として活動する。 イギリス貴族を中心に遺跡発掘の資金援助を受け、1916年からカーナヴォン卿の援助でエジプトの王家の谷の発掘を開始する。援助契約が切れる1922年、「世紀の発見」と言われたツタンカーメン王の墓を発見。 悪意により作られた“ファラオの呪い伝説” 発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が、墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、「発掘に関係した者が不審な死を遂げた」と言う、「ツタンカーメン(ファラオ)の呪いの伝説」が広まった。 しかし、実際に不遇な死を迎えた関係者は、カーナヴォン卿を含めてもごく少数であった。当時のマスメディアが報道規制に反発して、呪いによる死と言う形で報道したためで、「呪い」は全くの“創作”であった。 当の発掘者・カーター自身にもその被害は及ぶ。たまたま同姓同名の別人が交通事故により死亡した際、あたかもカーター本人が事故死したかのように書きたてられた。その後、この記事は訂正された。 カーターは高等教育を受けていなかったため、さまざまな差別待遇を受けた。当時の学会では、彼の携わった発掘は低く扱われ、ツタンカーメン陵の発見後もそれは変わらなかった。彼の社会的な地位や報酬は、その業績に比較するとかなり低いものだった。 1939年、カーターは健康な人生を全うし、64歳で息を引き取る。 ◇ 今日の誕生花・イヌタデ〔アカマンマ〕(タデ科) 花言葉は、「あなたのために役立ちたい」。 足もとの赤のまゝ見て立話 高木晴子 あなたのため私は役に立ちたくて アカマンマ炊くままごとなりき 鳥海昭子 |

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事


