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平成22年11月23日(火)昨日:法相辞任で緊迫、補正予算案採決は25日以降に。 柳田稔前法相が「国会軽視」と取れる発言の責任を取って辞任したことを受け、菅首相は22日、2010年度補正予算案の早期成立に全力を挙げる方針を強調した。 だが、野党側は採決の前提として民主党の小沢一郎元代表の証人喚問などを強く求めているうえ、仙谷官房長官と馬淵国土交通相の問責決議案を参院に提出する構えを崩しておらず、与党が目指していた24日の採決は、25日以降にずれ込む見通しとなった。菅政権は12月3日の国会会期末をにらみ、緊迫した国会運営が続きそうだ。 首相は22日夜、首相官邸で記者団に「補正予算は大変重要な案件だ。一日も早く採決し、成立させていただきたい」と訴えた。その上で、仙谷長官が兼務することになった法相の後任人事について聞かれると「まずは予算の成立だ」と述べ、補正予算成立後に決める考えを示唆した。 ※ よくよく、この国には政局しかないものと思い知らされる。 11月23日は、「樋口一葉忌」です。 ◇ 樋口一葉(1872年〜1896年)(本名は夏子、戸籍名は奈津) 東京生れ。中島歌子に歌と古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活苦に喘ぎながら、『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を世に出したが、数え年の25歳で肺結核により死去。 没後、『一葉日記』も高い評価を受けている。 明治25年(1892年)、処女小説『闇桜』が雑誌『武蔵野』に掲載。その後、明治28年(1895年)に、『たけくらべ』などを発表します。翌年、『文芸倶楽部』に『たけくらべ』が一括掲載されると、森鴎外や露伴らから絶賛されます。森鴎外は『めさまし草』で一葉を高く評価し、『文学界』同人も多く訪れるようになります。15歳から晩年まで綴っていた日記も、近代文学の傑作といわれる。1896年11月23日、症状が進行していた結核により、24歳と8ヶ月で早世。 一葉は、東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第五子で、一葉は二女。姉にふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、後に妹くにが生れた。 父親の則義は甲斐国山梨郡中萩原村(現、甲州市塩山)の百姓であったが、祖父は俳諧などの文芸や経書に親しんでいたようで、則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため駆け落ち同然に江戸に出たという。則義は蕃書調所の小使いから、1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人となり士族の身分を得るが、1876年(明治9年)に免職となる。その後は不動産の斡旋等で生計を立てている。 一葉は、少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。 その後、高等科第四級を首席で卒業するも、母・多喜の女性に学業は不要との考えから、上級に進まずに退学。 父・則義は、娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせたという。1886年(明治19年)、父の旧幕時代の知人である遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。ここでは和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学んでおり、源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフになっている。 「萩の舎」時代に一葉は親友の伊東夏子や田辺龍子と出会い、助教として講義もしている。「萩の舎」は当時、公家や旧老中・旧藩主などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通う歌塾だった。士族とはいえ元農民出身であったため、一葉は平民組として扱われ、上流階級の姉弟子たちにから「ものつつみの君」と呼ばれるほど内向的になる。 入門して初めての正月、新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの晴れ着の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかった。それでも劣等感をはねのけ、親が借りてきた古着で出席した。 一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引っ越しを経験する。1888年(明治21年)、戸主であった長男の泉太郎が死去、父を後見として一葉が相続戸主となる。1889年(明治22年)、則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に他界する。 一葉は17歳にして戸主として一家を担う立場となり、1890年(明治23年)には、「萩の舎」の内弟子として中島家に住み込む。同年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り、母と妹と三人で針仕事や洗い張りをするなど、苦しい生活を強いられる。しかし、一葉には労働に対する蔑視があり、針仕事や洗い張りはもっぱら母と妹がこなしていたと言われる。 一葉は、同門の姉弟子である田辺花圃が小説『薮の鶯』で多額の原稿料を得た事を知り、小説を書こうと決意する。20歳で『かれ尾花一もと』を執筆。同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用する。さらに小説家として生計を立てるため、東京朝日新聞小説記者の半井桃水に師事し、図書館に通い詰めながら処女小説『闇桜』を桃水主宰の雑誌『武蔵野』の創刊号に発表した。その後も、桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続ける。 次第に、一葉は桃水に恋慕の情を持つようになる。しかし二人の仲を囁く醜聞が広まったため、桃水とは縁を切る。桃水とけじめをつけるかのように全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、これが一葉の出世作となる。 生活苦打開のため、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが、1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居。この時分の経験が、後に代表作となる小説『たけくらべ』の題材となっている。12月に『大つごもり』を『文学界』に、翌1895年(明治28年)には1月から『たけくらべ』を7回にわたり発表し、その合間に『ゆく雲』『にごりえ』『十三夜』などを発表し、『大つごもり』から『裏紫』にかけての期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる。 1896年(明治29年)、『文芸倶楽部』に『たけくらべ』が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛を受け、森鴎外は『めさまし草』で一葉を高く評価し、『文学界』同人も多く訪れるようになる。5月には『われから』、『日用百科全書』に『通俗書簡文』を発表した。 一葉の結核の症状が進行し、8月に診断を受けたが絶望と診断される。そして、11月23日に24歳と8ヶ月で死去。 一葉の作家生活は14ヶ月あまりだった。翌1897年に、『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行された。 墓所は樋口家の菩提寺である築地本願寺別院で、のちに杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所へ移された。法名は、智相院釋妙葉。肉筆原稿や関係資料などの文学資料は日本近代文学館や山梨県立文学館に所蔵されている。2004年11月より、日本銀行券のE号五千円札の肖像に採用されている。 石蹴りの子に道きくや一葉忌 久保田万太郎 廻されて電球ともる一葉忌 鷹羽狩行 時雨煮の醤油の匂い一葉忌 小川文子 一葉忌厨の隅のマッチ箱 山下裕子 保存食煮つめて居りし一葉忌 柳田亜紀 手を撮れば魂を抜かるゝ一葉忌 一陽来復 好物はパンの耳なり一葉忌 又吉涼女 待針の珠の七色一葉忌 斎藤賢子 一葉忌一人で入るレストラン 川崎和子 止められぬ時代の流れ一葉忌 田口青江 小説のやうに寺あり一葉忌 平佐悦子 お足無き達磨にて候一葉忌 よし ※ 雅号の「一葉」とは、「桐一葉」からとったものかと問われて、これは内緒の話よと念押しをして語るには、家が困窮してお足が無いので、一枚の葦の葉の舟に乗って揚子江を渡ったと言う達磨の故事(一葦渡江)に因むものとか。 生活苦に押し潰されながらも、文筆業に雑貨商に勤しんだ一葉。日々の食い扶持に汲々としていた一葉が、今や五千円札になっているのは、何とも皮肉な話だ。 ◇ 処女小説『闇桜』(1892年3月) 幼馴染の園田良之助と中村千代の淡い初恋を描く。千代は良之助への忍ぶ恋情に悩み、ついに病床にふせるようになり儚く逝ってしまう。末尾の「風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて夕やみの空鐘の音かなし」が題名の由来。 ※ 地の文と会話とが渾然一体となった文体で、慣れないと読みづらいが、一葉の感性の鮮烈さがよく現れている。これをコミックにしたものが、ネット上に公開されています。 http://f.hatena.ne.jp/name-sawa/%E9%97%87%E6%A1%9C/?sort=old ◇ 今日の誕生花・ピラカンサ〔トキワサンザシ〕(バラ科) 花言葉は、「慈悲」。 よく笑ふ妻ゐて勤労感謝の日 加古宗也 さんざめく小鳥の声のおさまれば ピラカンサの実ひとつだになき 鳥海昭子 ◇ ピラカンサ(ピラカンサスとも呼ぶ) Pyracantha(ピラカンサ)は、ギリシャ語の pyro(炎)+ acantha(刺)が語源で、火のような真っ赤な実をつけ、枝にはいっぱいトゲがあることに由来します。中国名は、ずばり「火棘(かきょく)」。 11月23日の「勤労感謝の日」の誕生花には、ふさわしいのだろうか? 棘が多いことから生け垣に多用された。 一般に「ピラカンサ」と呼ばれているものには、数種類あるようだ。同属の「トキワサンザシ(常磐山査子・赤い実をつける)」「タチバナモドキ(橘擬・オレンジの実をつける)」など … 。 |

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