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平成23年4月21日(木)昨日:明日から被災地に派遣されるのがストレスだった。 海上自衛隊の潜水艦救難母艦「ちよだ」の乗組員・神山仁容疑者(31)は20日午後1時過ぎ、横浜市内のレンタルビデオ店の中で下半身を露出した疑いで現行犯逮捕された。神山容疑者の様子に気づいた店員が通報し、駆けつけた警察官が走って逃げる神山容疑者を取り押さえた。取り調べに対し、神山容疑者は「前回、東北に派遣された際、過酷な現場で勤務も厳しかった。明日、また派遣されるのでストレスがたまっていた」と供述しているということです。 ◇ 1号機「燃料が溶融の可能性」を東電認める(2011年4月20日22時) 東京電力の松本純一・原子力立地本部長代理は20日、燃料の約70%が損傷しているとみられる福島第一原子力発電所1号機の原子炉について「燃料が溶融している可能性がある」と認め、「圧力容器の中ほどに水飴のような状態で引っかかり、底までは落ちていないだろう」と述べた。 理由として、圧力容器の底部の温度が上部より低いことを挙げた。 東電はこれまで、燃料の損傷状況について「表面に穴が開いたり、燃料を詰めた合金製の被覆管が割れたりしているのではないか」と説明し、溶融については明言していなかった。 4月21日は、フレーベルの誕生日です。 ◇ フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベル(1782年〜1852年) ドイツの教育者、幼児教育の祖。ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチに啓発され、彼の初等教育のやり方をより小さい子供たちの教育に当てはめて、幼児の心の中にある神性をどのようにして伸長していけるか、ということに腐心した。小学校就学前の子供たちのための教育に一生を捧げた。 ドイツのオーバーヴァイスバハという小さな村に生まれ、5人の兄姉がいた。父は厳格な牧師で、母は彼が生後9ヶ月の時に亡くなっている。彼が4歳の時に父親は再婚するが、新しい母親とうまくいかず、淋しい子ども時代を送る。その後、彼は10歳の時に伯父ホフマンにひきとられ、初めて暖かな家庭生活を経験する。こうした体験が、後に幼児期教育を重視することの遠因になったと言われる。 イエナ大学に入学し、ここでシラー、シェリングなどドイツ・ロマン主義の影響を受けるが、授業料が払えずに退学せざるをえなくなる。やむなく山林書記、農業書記の仕事をした後、建築家をめざしてフランクフルトに出かける。フランクフルトで仕事を探していたが、友人の紹介で師範学校を訪れた彼は、教職こそ天職だと自覚する。この時の気持ちを「わたしは空を飛ぶ鳥、水のなかを泳ぐ魚のように幸せだ」と書き残している。 1816年、ドイツで自分の学園を作る。 その後、スイスに招かれて孤児院の院長を務める。1837年にドイツに戻り、バート・ブランケンブルクで最初は、幼児の遊び道具として教育遊具(恩物、おんぶつ)を考案・制作し広めようとする。また自分の教育についての考えを広めるために雑誌(『日曜誌』)も発刊。 多くの人に幼児教育の大切さを知って欲しいと考えた彼は、教育遊具を使って幼児を指導する先生を養成し、実際に幼児を指導する場を創ろうと考えました。 彼はロマン主義の立場から、子供の本質を神的なものとして捉え、この児童観に基づいて受動的、追随的な教育を主張した。園丁が植物の本性に従って、水や肥料をやり、日照や温度を配慮し、また剪定するように、教育者も子供の本質に追随的に、その無傷の展開を保護し、助成するように働きかけなければならないとされ、そこから彼のキンダーガルテン(Kindergarten・幼稚園・子供たちの庭)という名称が生まれた。 1837年、世界初の幼稚園として「一般ドイツ幼稚園」が開設されると共に、幼稚園の教員養成も積極的に行った。これを皮切りに、プロイセン全土に幼稚園が拡大してゆく。 彼は人間の発達の連続性を主張し、この立場から子供の共感的理解と、それに基づく教育を擁護した。神を不断の創造者として捉えた彼は、神的本質を有する子供は不断に創造すべきものと考えた。この立場から、彼は幼稚園の教育内容は、遊びや作業を中心にすべきものと考え、そのために遊具を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園に必ず設置すべきであると主張した。 しかし、フレーベルがルター派のプロテスタントであることを警戒したプロイセン政府は、「幼稚園は子供を無神論に導き、フレーベルは子供に社会主義を吹き込む」として禁止命令を出す。これには彼の甥のユリウス・フレーベルが、1848年の革命に深く関与していたこともあった。 そのため、フレーベルの晩年は暗く、彼は後に病に斃れ、1852年、失意の内に亡くなりました。 社名の由来:「フレーベル館」という名称は、ドイツの教育学者フリードリッヒ・ウィルヘルム・A・フレーベル(1782-1852)の名に由来します。フレーベル先生は世界で初めて幼稚園を創設し、保育士養成所を開きました。 また「恩物」(おんぶつ)を考案、製作し、理論化しました。 ※ 「アンパンマン」は、幼児教育の正義の味方です。 ◇ 「津波は3メートル」 その後は放送できず被害拡大の釜石(4月20日15時) 東日本大震災で津波を知らせる防災行政無線の放送内容は、被災した沿岸自治体ごとに違っていた。予想された津波の高さを知らせず、「とにかく逃げて」と訴えて功を奏した自治体もある一方で、「高さ3メートル」と放送したため、2階に避難すればいいと判断して被災した人が多い自治体もある。行政は何をどう伝え、市民はどう対処すべきか、多くの課題を残した。 3月11日、気象庁は地震発生3分後の午後2時49分に大津波警報を発令し、1分後に岩手県には高さ3メートルの津波が来ると予想した。これを受け、岩手県釜石市は午後2時50分と同52分に「高いところで3メートル程度の津波が予想されます。海岸付近の方は直ちに近くの高台か避難場所に避難するよう指示します」と市内96ヶ所のスピーカーで放送した。 気象庁は津波予想を、午後3時14分に6メートルと切り替え、同31分に10メートル以上とした。しかし、市は停電で気象庁情報を伝えるメールを県から受け取ることができなくなっていた。この間、避難を指示する放送を6回繰り返した。 その結果、市民の中には「津波は3メートル」と思い込み、2階に避難すれば大丈夫と判断した人が多かった。実際には、釜石港には約9メートルの津波が押し寄せたとみられている。 2階建ての同市鵜住居(うのすまい)地区の防災センターには周辺住民150〜200人が駆け込んだが、2階まで被災し生存者は約30人だった。避難した古川悌三さん(72)は「もっと高い津波と知っていたら山に逃げた」と話す。 同市の漁師坂本正男さん(55)は地震発生時、海辺の倉庫でワカメの加工作業をしていた。立派な防潮堤があるので、3メートルの津波なら避難しなくていいだろうと思ったという。だが、外に出てみると、すさまじい音が海から聞こえ、慌てて逃げた。「妹と義兄も見つかんねえ。こりゃあ人災じゃねえか」と憤る。 市防災課は「確実な情報が得られない中で精いっぱいやった」としている。 一方、隣の岩手県大船渡市は当初から津波の高さを言わず、大津波警報の発令と高台への避難のみを呼びかけた。市防災管理室は「津波は湾によって高さに差が出るので、誤解を与えないようにしている。警報の発令さえ知らせれば逃げてもらえる」という。 大船渡港を襲った津波は約9.5メートルとされる。同市の死亡・行方不明者は約500人。一方、釜石市は1300人を超えた。 岩手県山田町は「3メートル以上」と放送した。その後、予想される津波の高さが6メートルに切り替わったことをテレビで確認し、放送の準備をした。しかし、消防署庁舎から津波が見えて、全員が屋上に避難し、放送できなかった。 同町の田老邦光さん(52)は「3メートル程度の津波と思い込み、自宅の2階に避難した人が大勢いる。自分も堤防を越える津波を見て慌てて逃げた」と話す。職員の間からは「ただ『逃げてください』と連呼した方がよかったのでは」との反省も出ているという。 市街地がほぼ壊滅した陸前高田市と大槌町では資料がすべて流されてしまったため、どんな放送をしたかわかっていない。 宮城県では当初から6メートルの大津波警報が出ていたが、放送内容は自治体によって違っていた。南三陸町では、地震直後から「6メートルの津波が来ます」と防災無線で呼びかけた。無線を聞いて高台に避難した町民も多かったが、実際の津波は15メートルを超えており、3階建ての防災対策庁舎が水にのまれて、多くの町職員が犠牲になった。 同県気仙沼市の対策本部によると、3月11日当日は、気象庁の大津波警報が出た時点で防災無線を使って避難を呼びかけた。具体的な津波の高さを明示して注意を促したかどうかは記録が残っていないが、「とにかく高台に避難を、と徹底的に呼びかけた」という。 群馬大大学院災害社会工学研究室の片田敏孝教授は「速報性を重視する気象庁が初期段階で発表した3メートルという数字が独り歩きしてしまった。津波速報の活用方法を、行政も市民も見直す必要がある」と話す。 ◇ 今日の誕生花・サクラソウ(サクラソウ科) 花言葉は、「少年時代の希望」「青春」。 咲きみちて庭盛り上がる櫻草 山口青邨 桜草が好きと答へし人が好き 京極杞陽 幼くて抱きし希望(ねがい)いまもあり 桜草自生の山陰にして 鳥海昭子 |

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