|
平成23年8月13日(土)昨日:前原前外相、代表選不出馬の意向。 前原誠司前外相が11日夜、自らの議員グループ幹部との会合で、菅直人首相の後任を決める民主党代表選について「今回は準備期間としたい」と述べ、立候補しない意向を伝えたことが分かった。 会合には仙谷由人代表代行、枝野幸男官房長官らが出席。前原氏は出席者から「今回立候補しないと、来年9月の代表選にも出られない可能性がある」と指摘され、「日本の国益のためになるならそれでもいい」と語ったという。前原氏は仙谷氏らと野田佳彦財務相の支援に回るとみられる。 前原氏は在日外国人による献金問題で今年3月に外相を辞任し、立候補に慎重だった。ただ、知名度が高く、「選挙の顔」としての期待もあることから、本命不在の中で前原氏への待望論が高まれば再考する可能性もある。 8月13日は、池田勇人の命日 です。 ◇ 池田勇人(1899年〜1965年) 大蔵官僚、政治家、位階は正二位、勲等は大勲位。衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任。 終戦後まもなく、大蔵次官を経て政界入りし、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の経済運営・安全保障政策に深く関与。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格とされる。保守合同後は、自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相就任。 首相としては所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展に大きな役割を果たした政治家。また、19世紀生まれの最後の首相でもあった。 1948年に大蔵省を退官し、1949年の第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。選挙後の同年2月16日、一年生議員でありながら、吉田茂が党内の反対を押し切って第三次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢する。宮島清次郎や桜田武といった財界人の推薦があったといわれる。 第三次吉田政権は、その後、内閣改造を3回行ったが、いずれの改造人事でも池田は大蔵大臣に留任した。大蔵大臣としては(後の所得倍増計画に見られる積極策ではなく)引き締め政策を採り、同年3月1日にジョゼフ・ドッジと会談し、6日後の3月7日に共にドッジ・ラインを実施した。また同年、吉田の密命を受けて訪米し、独立後の基地提供について米国と協議した。なお、1950年(昭和25年)2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務。 1952年10月30日発足の第四次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣。 第三次吉田内閣にて大蔵大臣・通商産業大臣を務めていた1950年(昭和25年)3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」との発言が問題となる。また、第三次吉田第1次改造内閣にて大蔵大臣を務めていた同年12月7日、「貧乏人は麦を食え」との発言が問題となる。さらに、第四次吉田内閣にて通商産業大臣・経済審議庁長官を務めていた1952年(昭和27年)11月27日、日本社会党・加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再度発言したため、翌日に不信任案が提出・可決され辞任に追い込まれた。 その後も党・政府の要職を歴任。1953年(昭和28年)に自由党政調会長に就任し、池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉を行う。1954年(昭和29年)7月26日に自由党幹事長(12月29日まで)、1956年(昭和31年)12月23日に成立した石橋内閣では大蔵大臣、1958年6月12日に成立した第二次岸内閣では国務大臣。1959年6月18日の第二次岸内閣改造内閣では、通産大臣にそれぞれ就任。岸内閣の頃から、下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちと共に「所得倍増」の下地となる政策構想を錬り上げていく。1957年には自らの政策集団・派閥である宏池会を結成。 日本列島を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選、自民党第四代総裁に就任。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任、第一次池田内閣が発足。池田は第一次池田内閣で中山マサを厚生大臣に起用、日本初の女性閣僚が誕生した。 池田は総理になると、政治的論争となりうる課題を極力避け、「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出す。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案によるらしい。 1964年7月18日、内閣改造。第三次池田内閣改造内閣。9月9日、国立癌センターへ喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していた。病名は本人に告知されることなく、「前癌症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣表明、11月9日に後継総裁として佐藤栄作を指名。 その年の12月に退院するが、翌1965年7月29日、東京大学医学部附属病院に再入院。8月4日に手術を受けるものの、8月13日、術後肺炎により死去、享年65。葬儀は自民党葬として行われ、葬儀委員長は佐藤栄作。戒名は大智院殿毅誉俊道勇人大居士。墓所は故郷の広島県竹原市と東京都港区青山霊園にある。 ※ 信念の人は言葉を選ばず:第三次吉田内閣で、吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせた。池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。 1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。池田は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した。 翌日の朝刊には、「貧乏人は麦を食え」という大見出しで池田の発言を紹介した。これが池田自身の発言として伝わり、各方面から強い批判を受けることになった。 ◇ 初盆に祈りの被災地黙しゐる (2011年8月13日 夕) 東日本大震災の被災地も13日、お盆を迎えた。犠牲者にとって初盆となり、被災地では墓地や寺で肉親の冥福を祈る家族の姿がみられた。家が津波で流され、自宅で供養できない人も多い。 津波に襲われた宮城県気仙沼市波路上(はじかみ)地区では、海岸にあった寺の共同墓地が波で倒され、今は墓石だけが堤防沿いに並べられている。13日は朝から住人が姿を見せ、手を合わせて犠牲者の冥福を祈った。 岩手県宮古市田老地区の寺では、檀家の一割に当たる約百六十人の命が津波で失われた。多くの家屋が津波で流され、例年通りお盆期間中に住職が各家庭を訪ねて棚経を上げることもできず、代わりに寺で供養する。 ◇ 今日の誕生花・ミソハギ(ミソハギ科) 花言葉は、「切ないほどの愛」。 沼渡る風溝萩にとどきけり 稲畑汀子 流すべき流灯われの胸照らす 寺山修司 新盆の父母の精霊迎えんと 沼地に咲けるミソハギ摘めり 鳥海昭子 ※ みそ萩:盆花の別名のあるミソハギ。「禊ぎ萩」から転じたとも言われ、精霊花(ショウリョウバナ)の名もある。施餓鬼会で洒水をする時に、みそ萩を用いることも多い。 |

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事




