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平成23年12月14日(水)昨日:九電玄海3号機は最大規模の冷却水漏れだった。 九州電力玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)3号機の1次冷却水が漏れていた問題で、放射性物質を含む約1.8トンの水漏れは1994年3月に運転を始めて以来、最大規模だったことがわかった。九電がようやく明らかにしたもの。 九電は「通常起きる範囲の水漏れ」として指摘を受けるまで公表しなかったが、これまでにはなかった大きなトラブルだった可能性がある。 水漏れは9日午前11時ごろ、1次冷却水の水質を管理するポンプで発生。軸受け部分が80度以上の高温となる警報を発したため、手動で運転を停止した。担当者が確認したところ、軸のあたりから大量の冷却水が漏れていた。 ※ 原発は事故が起きても「大丈夫」。「心配ない」死んでしまえば心配ない。 ◇ 福島第1原発事故に伴う「帰還困難区域」指定へ 土地買い上げを検討 政府は東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域について、年間の放射線量に応じて新たに3区分に再編する方向で調整に入った。現行は原発から半径20キロ圏内の「警戒区域」と年間被曝線量が20ミリシーベルトを超える「計画的避難区域」に分類。新たな区分では50ミリシーベルト以上の年間線量が高い地域について、長期間にわたり住民が居住できない「帰還困難区域」に指定し、土地の買い上げなどの支援を検討する。 政府は16日の原子力災害対策本部(本部長・野田佳彦首相)で、事故収束に向けた工程表のステップ2終了を決定し、年内にも避難区域見直しに向けた考え方を公表する。 20ミリシーベルト未満の「準備区域」は住民の帰宅に備える地域。現在は住民がいないため、生活空間の除染や上下水道、学校、病院などのインフラ整備を進める。インフラの整備状況や自治体側の希望に合わせて、可能な地域から順次解除していく方針で、早くても来春以降になる見通し。 「居住制限区域」は数年間、居住ができないとみられ、除染などで20ミリシーベルト未満を目指す地域となる。「帰還困難区域」に該当しそうな線量が高い地域は、福島第1原発周辺から北西方向にかけて広がっており、数十年間にわたって住民が住めないとみられる地域もある。 首相は11月25日の参院本会議で「相当な期間にわたり住民の帰還が困難な区域が出てくることも考えられる。土地の買い上げなどを含め、国が責任を持って中長期的な対応策を検討していきたい」と述べ、支援策を検討する考えを示した。区域の名称に「長期」を入れる案もあるが、被災者の心情に配慮し見送るべきだとの意見もあり、調整を進めている。 12月14日は、サハロフの命日 です。 ◇ アンドレイ・ドミトリエヴィッチ・サハロフ(1921年〜1989年) ソビエト連邦の理論物理学者。物理学博士。宇宙論や素粒子論において国際的な業績をあげた物理学者だが、ソ連において水素爆弾開発に携わり、「ソ連水爆の父」と呼ばれた一方で、後に自らの良心に基づいて反体制運動家、人権活動家として、人権、市民的自由、そしてソ連の改革を主張するなど、後半生は政治的な言動が常に注目され続けた。「ペレストロイカの父」とも呼ばれた。 1921年5月21日モスクワに生まれる。1938年モスクワ大学に入学、1942年に同大学を卒業。独ソ戦のため、トルクメン共和国(現在のトルクメニスタン)のアシハバードに疎開。その後、ウリヤノフスクに移り、研究生活を送る。1945年モスクワに戻り、FIAN(ソ連科学アカデミー物理学研究所)の理論部門で研究生活を送る。戦後、宇宙線の研究に着手し、1947年物理学博士号を授与される。1948年からイーゴリ・クルチャトフの下で原子爆弾開発に従事。 1949年8月29日、ソ連最初の原爆を完成。次いで水爆開発に従事し、1953年8月12日、水爆開発に成功。この功績によりサハロフは、32歳の若さでソ連科学アカデミーの正会員となり、社会主義労働英雄の称号を3回も獲得し、「ソ連水爆の父」と称される。その後、核実験による放射能汚染の悲惨さを目の当たりにする。特に大気汚染を懸念し、核実験の中止をソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフに進言する。 1963年の部分的核実験禁止条約締結に尽力。また、同時期に物理学の分野では、宇宙論や素粒子論に関する論文を発表し始める。 1960年代後半から民主化を求めて社会的発言を公表するようになり、1968年「進歩、平和共存、知的自由に関する考察」をサミズダード(地下出版)の形式で発表。同考察は同年西側で公刊されたため、サハロフは軍事機密に関係する研究から遠ざけられ、科学アカデミー物理学研究所に配置換えされる。 1975年、ソ連での活動を評価されてノーベル平和賞を受賞。ソ連国内では受賞が批判の対象となり、批判キャンペーンが党の主導で行なわれた。 1980年、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議したため、1月22日、当局に連行され、レオニード・ブレジネフ最高会議幹部会議長命令によって一切の栄誉を剥奪され、ゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)市に流刑された。流刑の身となったサハロフであったが、1981年、義理の息子の婚約者の出国を要求し、1984年、エレーナ・ボンネル夫人の病気治療のための出国を要求し、ハンガーストライキによる抵抗を続けた。 1986年、ミハイル・ゴルバチョフからの電話によって流刑が解除され、モスクワに戻る。以後、ペレストロイカの進展を支持し、ソ連人民代議員大会が創設されると、1989年に科学アカデミーから人民代議員に選出される。人民代議員大会では急進改革派に属し、アフガニスタン侵攻を批判するなど良心と勇気に基づく発言は人々の尊敬を集め、「ペレストロイカの父」と称された。 1989年12月14日、心臓麻痺のため急死。前日、夫人に語った言葉は「明日は戦いだ … 」と言うものだったとか。モスクワ市内のボストリャコフスコエ墓地に埋葬された。 1988年、欧州議会はサハロフを記念し、「サハロフ賞」を創設し、言論及び思想の自由の擁護に尽くした人々や組織に賞を贈っています。 ※ 現在、地球上に存在する核弾頭は、地上を数十回分も壊滅させるに十分な物量を誇るとか。我われが築き上げてきた輝かしい文明の成果と言うべきだろうか。そして、プルトニウム生産炉として、原発は大いに貢献してきたのだった。科学の進歩と下半身には、理性と云うものが乏しいようだ。 ◇ 今日の誕生花・フユザクラ(バラ科) 花言葉は、「冷静」。 ひと揺れに消ゆる色とも冬ざくら 平子公一 冬桜空の碧さとかかはらず 馬場移公子(いくこ) ひっそりと冬ざくら咲くお社に 合掌している老夫婦あり 鳥海昭子 |

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