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平成24年3月6日(火)昨日:米国に1―0「なでしこ」勝利、高瀬決勝ヘッド。 女子サッカーの国際親善大会、アルガルベ杯は5日、グループリーグの最終第3節が行われ、B組の日本代表(なでしこジャパン)は米国に1―0で勝利、3連勝で同組1位とし、7日の決勝進出を決めた。 日本は立ち上がりから積極的に攻め、9分、安藤がゴール正面でシュートを放つが、相手GKに阻まれた。 米国は26分、FWモーガンが右足で強烈なシュート。ゴールポストに当たって跳ね返った。 日本は36分、ゴール正面で得た宮間のFKはゴール枠上へ外れた。 0―0で前半終了。 日本は65分、安藤に代わり高瀬(INAC)、岩清水に代わり宇津木(モンペリエ)、大野に代わり川澄(INAC)を投入。 79分、阪口に代わり菅沢(新潟)が入った。 日本は84分、宮間の左CKを高瀬がヘッドで合わせ、先制ゴールを決めた。 ロスタイムの94分、田中に代わり伊藤(日テレ)が入った。 1―0のまま、日本が逃げ切る。 実に記念すべき対米戦初勝利! 昨年7月のドイツW杯決勝以来となった一戦は、後半38分にFW高瀬愛実(21)=INAC神戸=がゴールを決め、1―0で勝利。B組1位で7日の決勝に進んだ。実に26度目の対決でPK戦を除いて初勝利を挙げ、今夏のロンドン五輪へ弾みをつけた。 大黒柱の沢を欠いたなでしこが、W杯より成長した姿を披露した。値千金の決勝ゴールを決めた高瀬は、試合終了直後から号泣が止まらない。「本当に前半からみんなが体を張ってくれていました。決められてよかったです」。歴史を塗り替えた劇弾を振り返り、やっと笑顔が戻った。 後半38分、宮間のCK。ファーサイドで待ち構えた高瀬のヘディングが、ゴール右隅に突き刺さった。世界ナンバーワンGKのソロも届かない完璧な弾道だった。2010年5月のアジア杯タイ戦以来の代表通算5点目を「うれしいけど1点は1点という気持ち。決勝でも1点取れれば、という気持ちで頑張りたい」と振り返った。W杯では準決勝スウェーデン戦の4分しか出場機会がなかった伏兵が、歴史的な勝利を決めた。 高瀬のコメント「代表で久しぶりのゴール。結果を残せて良かったです。得点シーンは、(宮間)あやさんからボールが来そうな予感がしていました。バックステップしたら、いいボールが来て、マークも外れて、どフリーでしたよね。シュートがどこに飛んだかは見えませんでしたが、その後、あやさんがガッツポーズしているのが見えたので、入ったんだなと分かりました。 得点以外の自分の出来はもうちょっとかなと思います。ボランチ起用は予想外でしたけれど、紅白戦の時にノリさん(佐々木則夫監督)に『いいぞ』って言われたことが嘘じゃなかったんだと … 、うれしかったです。今度は世界一を決める大会で、爆発したいです」。 W杯はPK戦の末に初勝利したものの、内容では完敗だった。シュート数は14対27と圧倒され、何度も決定的なチャンスを作られた。帰国後も選手は「まだ本当に勝ったとは思ってない」と口を揃えた。試合直前に沢が体調不良で欠場。W杯決勝では延長後半12分に劇的な同点ゴールを決めた大黒柱が不在でも、なでしこは強かった。 7日には初の決勝に駒を進める。米国に苦手意識を植え付けたことは、史上初のW杯 → 五輪金メダルへの1勝以上の重みがある。 佐々木則夫監督「前半我慢して、後半に入れた選手が活躍するという、スピルバーグ監督の映画のようなシナリオでした。選手たちが、昨日長い時間ミーティングしたのをピッチで表現してくれた。後半が勝負になると思っていた。決勝は自分たちも成長できるように戦ってほしい」。 ※ 「やっと勝てたんだ … 」と澤が言ったから 3月5日は なでしこ記念日 ※ 澤が体調不良で欠場するも、「なでしこ」の底上げは着実に成果を挙げた。 ◇ 米国、好機生かせず 米指揮官「日本は素晴らしかった」 米国は序盤から優位に試合を進めながら、セットプレーから一瞬の隙を突かれて失点。PK戦で敗れたW杯決勝は公式記録では引き分け扱いとなるため、今回が26戦目で初の黒星となった。 前半6分のFKからFWワンバックが頭で落とし、FWモーガンがネットを揺らしたが、判定はオフサイド。同26分にはモーガンのシュートが右ポストに嫌われた。米国・スンダーゲ監督「世界王者に勝つには、しっかりとした試合をしないといけない。中盤に日本にボールを与えすぎたのが敗因。日本のボールコントロールの技術は素晴らしかった」。 3月6日は、香淳皇后の誕生日 です。 ◇ 香淳皇后(1903年〜2000年) 昭和天皇の皇后 名は良子(ながこ) 久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩主・公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。祖父・久邇宮朝彦親王は男子9人を儲けており、東久邇宮稔彦王は叔父。また、五女・島津貴子の夫・島津久永は母方の従弟に当たる。 1920年(大正9年)に裕仁親王が元服礼を行ったことをうけて、同年6月10日に正式に婚約が内定する。しかし、1921年に入って母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老・山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫る、いわゆる「宮中某重大事件」が起こる。事件の内容は極秘扱いされたものの、世上さまざまな憶測が流れ、中でも宮中に影響力を保持しようとする山縣の策略とする見解が強かったために、良子女王に同情が集まり、原敬らの反山縣勢力が山縣追落としにこの事件を利用したこともあり、最終的には翌年2月10日に宮内省から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」との発表が行われて事件は決着した。最終的な決め手のひとつが、生物学者でもあった裕仁親王の「良子でよい」という意向であったといわれている。 1924年1月26日に結婚。皇太子妃となり、赤坂東宮御所に住まう。裕仁親王との関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をしていたという。1925年12月6日には第一女子・照宮成子内親王が誕生する。良子妃は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。幼少時、子女を手元で育てたことは大変に画期的な出来事だった。 1926年(昭和元年)12月25日、裕仁親王の践祚(せんそ)に伴い立后。1927年、第二皇女の久宮祐子内親王が誕生するも、翌年に敗血症のため夭折。香淳皇后は自ら死化粧をほどこし、昭和天皇も禁を破り通夜に出席する。 同年11月10日、即位の大礼が京都御所で盛大に執り行われた。 1929年(昭和4年)、宮城(当時の呼称で <きゅうじょう>)に住まいを移す。さらに二人の皇女が誕生するが中々男児を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ、側室制度の復活が本格的に検討された。皇后も心労に苦しむが、側室の件は昭和天皇自ら「人倫に反する事はできない」として、これを拒否。1933年(昭和8年)12月23日、継宮明仁親王が誕生。待望の皇子誕生とあり、日本全国から盛大に祝賀された。 ※ 明治天皇の皇后は子女に恵まれず、5人の側室に15人のお子をなされた。だが、二人の側室は死産、大正天皇の母君も前二子が夭折している。 明治天皇の代から、「一世一元の制」を採用する。 戦中の食糧難の折には、天皇と夕食をともにする際、二人で相談して必ず料理の一皿か二皿を残し、侍従や女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は引き揚げ者のための布団や着物作りを行なった。 皇室の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年の日本赤十字社名誉総裁就任を始めとして、1952年以降の全国戦没者追悼式、1964年の東京オリンピック開会式、1970年の日本万国博覧会開会式、1972年の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例。靖国神社・護国神社への天皇親拝にも度々同行されている。 皇女たちの結婚にあたり、長女・成子内親王の例から、娘達の意思を尊重するためのお見合いやデートを勧める進取性の一方で、皇太子明仁親王(当時)と民間出身である正田美智子(当時)との婚約が決定された際には、秩父宮妃勢津子の母親で貞明皇后の御用係として長年宮中に仕えた松平信子らと共に、「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示している。 『入江相政日記』では、松平が宮崎白蓮などと共に、正田家に婚姻辞退を迫るべく右翼団体を動かして圧力をかけようとしたと記されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いたようだ。 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御を受けた皇太子明仁親王即位に伴い、皇太后となる。この年には昭和天皇の他に、第三皇女・鷹司和子、実妹の大谷智子が死去し、肉親との別れが続いた。これ以降、その動静が伝えられることがまれになり、メディア等への露出も少なくなった。 1994年、後冷泉天皇の皇后・藤原寛子の数え年92歳を抜いて、歴代最長寿となった。2000年6月16日、老衰による呼吸不全のため皇居吹上大宮御所で崩御、97歳。7月10日に「香淳皇后」と追号された。 香淳とは上代の漢詩集『懐風藻』で、お印と号にちなんだ「桃」から「花舒桃苑香、草秀蘭筵新」(安倍広庭「春日侍宴」)、および「四海既無為、九域正清淳」(山前王「侍宴」)に拠る。「和書」を典拠にする諡号はこれが初めてだった。7月25日に文京区の豊島岡墓地で斂葬(れんそう)の儀が行われた。陵墓は東京都八王子市長房町の武蔵野東陵。 ◇ 今日の誕生花・ショウジョウバカマ(ユリ科) 花言葉は、「希望」。 雪とけて村一ぱいの子ども哉 一茶 芹薺汽車道越えて三河島 子規 ※ 根岸からは歩いてゆけるほどの東京のはずれ、三河島。即吟写生句。 啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く 虚子 滝風のおよぶ猩々袴にも 木村蕪城(ぶじょう) 声明のきこゆる如き谷間に ショウジョウバカマ花つけいたり 鳥海昭子 |

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