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平成24年3月24日(土)本日:母親が無理心中図る? 3児死亡。 24日午後7時45分ごろ、鹿児島市中山1の会社員、福冨拓也さん(39)方で、「帰宅すると、子供3人と妻が倒れていた」と福冨さんから119番があった。通報を受けた鹿児島県警鹿児島南署が調べたところ、福冨さんの長男・翔也君(10)、次男・倖生君(8)、長女・りおなちゃん(4)の3人が死んでいた。室内にいた母親(37)が3人の首を絞めたことをほのめかしており、県警は無理心中を図ったとみて調べている。母親も手首などを負傷しており、病院に運ばれ治療を受けた。 調べでは、福冨さんが帰宅した際、ドアが施錠されており、窓の隙間から中を見ると子供が倒れているのが見え、119番したという。現場は、鹿児島中央駅の南西約5キロの住宅地。 福冨さん方は約1年前に建てられたマンションの一室。近所の女性は「『ドン、ドン』と何かを叩くような音がして、しばらくすると救急車やパトカーが集まってきた。こんな所で事件が起きるなんて」と驚いた様子だった。 ※ 他者を殺すのは容易だが、自分を殺すのは難しい。未遂を経験せずに自殺できる者は、意志堅固で実行力に富む。 親子心中で親だけが死に切れないケースが、最も悲惨を極める。悔恨の余生は余りにも長すぎる。男親とは、人生の同伴者たり得ないのか? 3月24日は、渡邊白泉の誕生日 です。 ◇ 渡邊白泉(1913年〜1969年) 本名は威徳(たけのり) 1913年3月24日、東京都赤坂出身。中学4年の頃『子規俳話』に接し俳句に興味をもつようになり、やがて自分でも俳句を作ってみようと思い立つ。 1933年、慶応義塾大学経済学部に進学。在学中の1934年、『馬酔木』2月号の水原秋桜子選に一句初入選する。1936年、慶応義塾大学経済学部卒業、三省堂に入社。 西東三鬼らとの交流を深めながら新興俳句の新鋭と注目される。同人誌『風』を創刊、「京大俳句」に参加、新興俳句総合誌『天香』創刊に参画するなど実作、評論と積極的な活動を展開する。1940年、治安維持法違反の嫌疑により検挙、のち起訴猶予となる。以後、執筆禁止を言い渡される。しかし、白泉は句作を続け、変名で『鶴』に投句。また、以前より進めていた古典俳諧研究を続ける。 戦後、岡山県で教職に就き、1951年からは静岡県で教員生活を送る。翌年から沼津市立沼津高等学校で教鞭をとる。教育者の傍らで俳句活動も行う。1947年、現代俳句協会の創立にともない会員。 1969年、白泉は在職中に『渡邊白泉自筆句集稿本』を執筆し、書きおえた2週間後に急逝。 無季・超季語・口語調で、奥に風刺の籠もった新興俳句の主流となる。 「新興俳句の生んだ最大の作家」とも評される白泉 昭和十年代、新興俳句の旗手として、それを背負って立つほどの活躍をみせていたものの、弾圧事件で検挙の憂き目にあうだけでなく、まとめられる寸前だった句集もその煽りで出せずじまいに終わった。戦後は、俳壇との距離を置いたことや、保守化傾向を喧伝する山本健吉などの扱いによって、一部に知られるだけで、ほとんど忘れられた状態に埋もれた。 後に、三橋敏雄の手によって『渡邊白泉全句集』(沖積舎)が昭和59年に刊行されて以降の、白泉を知らない俳人はモグリと言われるほどの声望の高まりを見せた。だが、遅きに失した憾みも無くはない。ある意味では、戦後俳句は白泉を忘れ去ることを必要としたということかも知れぬ。 街燈は夜霧にぬれるためにある ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ 銃後といふ不思議な町を丘で見た 包帯を巻かれ巨大な兵となる 戦争が廊下の奥に立つてゐた ◇ 今日の誕生花・ムスカリ(ユリ科)(グレープヒヤシンス) 花言葉は、「夢にかける思い」。 ある時は月にころがる田螺哉 子規 ※ タニシは泥中に越冬し、春になれば泥田を這う。食用に供す。 巣の中に蜂のかぶとの動く見ゆ 虚子 学校の兎にながき春休み 八染藍子 ※ 嘆くまい! なにゆえ吾は「ウサギ番」 校舎隣の我が家を恨む 連山の型組み合つて笑ふなり 本井 英 いつか咲く今日は咲くかと願う日に 少しおくれしムスカリの花 鳥海昭子 |

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