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平成24年6月24日(日)本未明:大飯原発で警報鳴るも設備に故障なし? 運転再開に向けた準備が進む関西電力大飯原子力発電所で、23日夜から24日未明にかけて、送電線の状況を監視する無線の信号が途切れたことを示す警報が断続的に鳴りました。国の原子力安全・保安院は「設備に故障はなく、今回の異常はこれまで公表していない小さなものだが、トラブルの公表が遅れた問題を受けて発表した」としています。 6月24日は、「五月雨忌」 です。 ◇ 五月雨忌( 村下孝蔵の忌日 1953年〜1999年 )シンガーソングライター ヒット曲『初恋』の歌詞と、五月雨(梅雨)の時期であることから「五月雨忌」と呼ばれる。 『初恋』『踊り子』『ゆうこ』『陽だまり』などのヒットで知られる。 熊本県水俣市出身、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。 熊本県水俣市浜町仲之町通りで映画館を営む夫婦の第三子として生まれる。生まれて間もない頃の村下は泣くことが少なく、近隣の住人を「生まれたと聞いたけれど泣き声がしない」と不思議がらせたという。村下はそのまま無口な少年に育つ。姉によると、幼少期の村下は実家が営む映画館で一番前の席に座って映画を観たり、一緒にラジオで歌謡曲を聴いたりして過ごすことが多かった。 村下は日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にすることもあった。映画館の事務所には休憩時間にかけるレコードが置かれていて、村下は姉とともに聴きあさった。村下はエレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、「寺内タケシとブルージーンズ」を好んで聴いていたが、やがて「こっちのほうがすごい」とベンチャーズに夢中になったと云う。1965年、映画『エレキの若大将』で、加山雄三が唄う『夜空の星』(作曲:弾 厚作=加山)を聴いたのをきっかけに、「ボクも作曲する、歌う、エレキ・ギターも持つ」と言うようになった。 1972年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科入学。広島に来て間が無い村下には友達がなく、平和公園で一人でギターを弾くことが多かった。同年夏、自主制作シングル『ひとりぼっちの雨の中』を発表。同校卒業後ヤマハ広島店に就職し、二年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ、1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテルのラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した。1979年、ヤマハを退社し自主制作レコード『それぞれの風』を発表。 『 踊り子 』 (1990年の収録) 知人のライブハウス店主から勧められ、CBSソニーの全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得する。これがきっかけで27歳にしてプロ歌手としてデビュー。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると、村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれ、「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば、「フォークはもう終わりだ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともあり、デビューが決定した。 1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビュー。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続けた。1981年発売の「春雨」は約3ヶ月半、1982年発売の「ゆうこ」は約7ヶ月半にわたってチャートインした。 1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる。『初恋』は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲だった。水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。 村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した。そして、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中ではレトロな印象を抱く者の方が多かったという。 『 初 恋 』 『初恋』発売前後に村下は肝炎を患う。『初恋』がヒットしても、テレビ番組にはほとんど出演できなかった。また、肝炎が原因で広島と東京との往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移す。同年秋から全国ツアーを開始したが、翌1985年に再び体調が悪化、入退院を繰り返した。 1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演する。彼の、ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた。 1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。須藤によると、この頃アルバムの売れ行きが落ち込みを見せ、村下にも須藤自身にも焦りが生じていたという。1992年発売のシングル『ロマンスカー』は、「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し、完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った渾身の作品であったが、売れなかった。須藤は「時代が違ってきたんだ」と実感したという。この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には『初恋』を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至ったとか。 1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れたが、診察で高血圧性脳内出血と判明。直後に昏睡状態に陥り、4日後の6月24日に逝去。享年46。葬儀は6月26日に営まれた。夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲『ロマンスカー』がかけられた。7月3日には、東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた。 『 ロマンスカー 』 町支寛二/村下孝蔵 『 22才の別れ 』 村下孝蔵(カバー) (作詞・作曲:伊勢正三 編曲:石川鷹彦) ※ 帰らざる我が青春の思い出よ ふたたび見ゆる折りもあらばや ◇ パトカーに追跡された車が事故 女性を死なせる 23日午後11時50分ごろ、北海道旭川市でスピードを出しすぎていたとして、パトカーの追跡を受けていた乗用車が交差点で軽自動車と衝突し、この軽自動車を運転していた女性が死亡した。 軽自動車を運転していたのは近くに住む看護師・清水縁さん(53)で、全身を強く打って間もなく死亡。乗用車を運転していた旭川市内の会社員の38歳の男も怪我をして病院に搬送された。 警察によりますと、乗用車は事故の前、追い越したパトカーからスピードを出しすぎていたとして停止を求められましたが、そのまま逃げ、およそ600メートルにわたって追跡を受けていたという。 事故があった交差点に信号機はなく、警察は乗用車が一時停止の標識を無視して突っ込んで軽自動車にぶつかったとみて、運転していた男から怪我の回復を待って事情を聴くことにしています。 パトカーの追跡について、旭川東警察署の林昭好副署長は「現時点では追跡の方法は適切だったと考えている」と話しています。 ※ パトカーを追い越した乗用車。夜のカーチェイスを楽しもうとしたのは、乗用車サイドだけだったのだろうか。スピード違反の取締りで、無辜の市民を巻き添えにして「適法」とは、馬鹿げている。深夜の気晴らしの為に、一人の人間が犠牲になる。全く馬鹿げている。 ◇ 小沢グループと呼ばれている皆さんへの呼びかけ(菅直人ブログ) 1年前、私に対する不信任案に小沢氏は賛成すると言って、造反しようとした。目的は小沢氏の思う通りにならない私(総理)を引きずり下ろすため。今回もテーマは違うが目的は全く同じ。 過去において小沢氏は何度も同じことをやってきた。その都度、大半の「小沢グループ」の顔ぶれは変わっている。しかし、新たに取り込まれた「小沢グループ」の議員が小沢氏個人の駒として使われているという構造は変わらない。 小沢グループと呼ばれている皆さん、ぜひ目を覚ましてほしい。小沢氏の個利個略のために、駒として利用されることがないように、目を覚ましてほしい。そして小沢氏の呪縛から離れて、自らの判断で、行動してほしい。 ◇ 今日の誕生花・レンゲツツジ(ツツジ科) 花言葉は、「情熱」。 蝙蝠や髪そりつかふ手くらがり 子規 ※ 夕暮れ薄暗がり、剃刀の手元が見えわかぬ。外には闇を切裂く蝙蝠の気配。 酌婦来る灯取虫より汚きが 虚子 ※ ひとりの人間を、蛾よりも見苦しいとする虚子の精神は、はたして … 牛放つ蓮華つつじの火の海へ 青柳志解樹 かたつむり甲斐も信濃も雨のなか 飯田龍太 美しき画鋲のごとく天道虫(てんとむし) 福田蓼汀(りょてい) 高原はレンゲツツジの朱に燃えて あなたをわたしをかくしてしまう 鳥海昭子 |

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