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平成24年7月4日(水)昨日:浪江町長、東電社長に回答迫る「誠意を見せろ」。 東電事故調は「震災2日後、浪江町に連絡」 事実と異なる 東京電力の下河辺和彦会長と広瀬直己社長が3日、二本松市の浪江町仮役場を訪れ、就任の挨拶と原発事故の謝罪をした。ただ、東電側は町が求めていた質問書の回答を持たずに訪問。対応を先送りする東電に対し、馬場有(たもつ)町長は「誠意を見せろ」と迫った。 午前9時半、東電側は下河辺会長ら幹部5人が町仮役場を訪れ、事故直後に町へ連絡が行かなかったことについて「対応が十分とはいえなかった」と謝罪。馬場町長は「事故後の対応を『不十分』の一言で済ますことは許されない。甚だ憤りを覚える」と応じた。 町側は会談で事故の収束や賠償について、「誠意ある対応」を改めて要求。東電側は「可及的速やかに行う」と繰り返した。会談後、馬場町長は「倫理のかけらも感じられず、町民をバカにした対応だ」と声を震わせた。 また東電側は、町から求められていた事故調査に関する質問書の回答を持参しなかった。町は東電が6月20日に公表した事故調査の最終報告について、震災2日後に東電が町に連絡に来たという内容が事実と異なるとして、回答を求める質問書を送っていた。 東電の石崎芳行常務は「追跡調査をしている」と釈明したが、町側は追及。広瀬社長は急遽、同日夕に回答書を持って再び仮役場を訪れた。だが、その回答は事故調査の報告と変わらず、馬場町長は「とんでもない話だ」と突っぱねた。 東京電力福島第1原発事故の「おわび行脚」全日程を終了 福島県と原発周辺13市町村を訪問していた東電の下河辺和彦会長と広瀬直己社長は3日、浪江町や南相馬市などを訪れた。 同町では、町の質問状への回答書を持参せずに反発を招き、広瀬社長が予定を変更して夕方に再訪する一幕も。一連の訪問では自治体から賠償問題を中心に注文が相次いだ。 3日午前に訪れた両氏に対し、浪江町の馬場町長は「美しい町を離れて481日目。長い辛い悔しい生活だ。町民1万4000人はバラバラに避難している」と訴えた。回答書がないことを知ると「はなはだ憤りを感じる。誠意がない」と一喝した。 質問状は、事故直後の町への連絡体制を問う内容。東電は先月の事故調査報告書で「(昨年3月)13日から社員が訪問」と記載したが、町側にその記録はないため3日までの回答を求めていた。 広瀬社長が再訪時に持参した回答も同趣旨で、馬場町長は「でたらめ。全部嘘です」と反発を強めた。 両氏は就任翌日の6月28日、佐藤雄平知事を皮切りに自治体を順次訪問した。 ※ もともと原発は、現場従業員の被曝を前提に発電するシステムだ。そして何よりも核兵器製造を前提にした発電システムなのだ。そんな国策100%のシステムが、民主的であろう筈がないのだ。増え続けるプルトニウムに、この島国は埋め尽くされてしまうだろう。フィンランドでは永久埋設に着手した。わが国では未だに、「プール」に沈ませている。極めて大量のプルトニウムが日本全国の「プール」に沈んでいる。地上最凶のプルトニウムが … 。 7月4日は、木村 功の命日 です。 ◇ 木村 功( 1923年〜1981年 ) 昭和期の映画俳優 新劇俳優 広島県広島市出身。戦後日本映画史を代表する名優の一人 広島二中(現・広島県立広島観音高等学校)卒業後、上京。1941年、文化学院文学部に入学。在学中より演劇運動に没頭、様々な学生演劇に出演する。1943年、文化学院演劇部『華々しき一族』で邦枝梢と共演して見初める。入隊前に梢との結婚を申し込むが、父である作家・邦枝完二の許しは得られなかった。 また、東宝撮影所でアルバイトをしていた友人を訪ねたとき、山本嘉次郎監督にスカウトされ、『ハワイ・マレー沖海戦』に出演。1943年、文化学院閉鎖に伴い1年繰上げで卒業後、召集され1944年から1年間海軍生活を送る。1945年、終戦により復員。広島へ帰郷したが、8月6日の原爆により家族全員を失っていた。 1946年、失意のうちに再び上京、俳優座に入団。1948年4月1日、邦枝梢と結婚し、同年暮れより藤沢市鵠沼の梢の実家に同居。ロベルト・ロッセリーニの『戦火のかなた』などイタリア映画のネオ・リアリズムに傾倒した。 1949年、痩せこけた俳優を探していた黒澤明監督の目にとまり、『野良犬』に出演。三船敏郎演じる刑事に追われる惨めな復員兵の犯人役で、戦争の深い傷跡を表現し大きな注目を集めた。以後も、『生きる』『七人の侍』『天国と地獄』など黒澤明中期作品の常連となる。 『 雪 国 』 1965年 (原作:川端康成) 監督:大庭秀雄 出演 :木村功 岩下志麻 1950年、保守的に傾き始めた幹部たちと対立して俳優座を退団。各新劇団の若手であった岡田英次、金子信雄、高原駿雄らと「青年俳優クラブ(劇団青俳)」を結成。劇団青俳では翻訳劇・創作劇を意欲的に上演、また映画『億万長者』などの製作も行い、劇団の中心的存在として活躍する。 一方で、『人間魚雷回天』『米』『宮本武蔵』『関の弥太っぺ』『暗殺』『雪国』など大作・話題作映画に出演した。 また戦後左翼運動の台頭などで活発化した独立プロ運動に共鳴し『山びこ学校』『真空地帯』『雲ながるる果てに』『足摺岬』『樹氷のよろめき』など独立プロ製作の作品にも多数出演し名声を確立した。スマートでダンディ、ニヒルな翳りがあって女性ファンも多かった。 1981年7月4日、食道癌のため死去。享年58。 「劇団青俳」は個性的な俳優陣を多数輩出したが、二本柱だった岡田英次と木村の意見に次第にズレができた。岡田がやや前衛的思考だったのに対し、木村は正統派の新劇を守っていこうという立場だった。 1968年「劇団青俳」は、劇団内部の戯曲選出の意見の対立から分裂し、岡田は清水邦夫、蟹江敬三、蜷川幸雄らの「現代人劇場」に参加。1970年には社長だった本田延三郎も離れ、テレビ・映画で活躍する著名俳優が次々と移籍、独立し、看板俳優は木村と織本順吉だけとなった。 青俳結成当時のメンバーだった倉橋健は、「木村君は滝沢修さんのように日本の演劇を変えたわけではない。しかし、従来の事大主義だったイデオロギーを超えて新劇の幅を広くした。その後、彼の演劇観は変わらなかった。それに対して若い蜷川幸雄などはついていけず脱退した。結果、取り残されたのが彼の悲劇といえます。彼は演劇より映画でいい仕事をした。巧い役者でカンが良く、マジメで努力家だった。素材としては、非常に貴重な役者で、いい監督と脚本に恵まれると、特に力が出ましたね」と追悼した。 妻の木村梢はエッセイストで、回想記『功、大好き』(講談社)がベストセラーとなった。また編著『功、手紙ありがとう』(三笠書房)がある。 ◇ 「あと1球」から暗転、暴投振り逃げで決勝点を献上 < 広島 4―3 阪神 > (3日・松山坊っちゃんスタジアム) またも繰り返された悲劇 … 。 4番手で登板した阪神・榎田大樹投手(25)が、2点リードの土壇場九回に3連打などで逆転を許した。救援陣が踏ん張れない現状に、故障離脱中の藤川も甲子園からチーム内競争を煽る強いメッセージを発していたが、思いは届かず借金は今季ワーストの5。5位広島とのゲーム差は0.5まで縮まった。 まさか、まさか … の光景だった。九回2死無走者から3連打で1点差とされ、さらに重盗されて二、三塁のピンチ。抑えの榎田がカウント2‐2から投じた内角低めのスライダーを梵が空振り三振。ゲームセットと思った直後、低めに落ちたボールを小宮山が捕球できず、白球は一塁ベンチ前まで転々と転がった。三塁から同点の走者がかえっただけでなく、二塁走者までもが一気に生還。 信じがたい「振り逃げ逆転」だった。 和田監督は「考えられないことが起きてる … 」と絶句した。藤川、福原不在の救援陣の厳しい状況を厳しい表情で振り返った。 藤川の代役が流れを止められなかった。2死からの3連打に加え、痛かったのは暴投の前に許した重盗だ。2死一、二塁、1ボール2ストライクからの4球目に走られ、吉田バッテリーコーチは「ベンチからも野手からも声を掛けていた。隙をつくってしまった」と悔やんだ。 6月29日からのヤクルト3連戦と合わせ、チームは4試合で逆転負けは3度目。救援陣の苦境がそのまま試合結果に直結している。榎田は「2死から落ち着いて投げられなかった」と話したが、この日のゲーム展開を見れば、投手だけを責めるわけにはいかない。 振り逃げのシーンも、記録は暴投ながら、完全なワンバウンドではなかった。吉田コーチは「あれは止めてほしかった。その後も2人もかえられているんでは話にならない」と、故障の藤井彰に代わってマスクをかぶった小宮山に厳しい声を投げかけた。 ※ 阪神ファンの怒号も当然だ。だが、馴れぬバッテリーが9回を抑えるのは大変な事だと思う。こんな草野球的な幕切れもまた、プロ野球なんだと思う。人生いろいろ、プロ野球だって … 。 球児も岩瀬も、やっぱり凄いって事です。 ◇ 今日の誕生花・ノカンゾウ〔ヘメロカリス〕(ユリ科、野萱草) 花言葉は、「苦しみからの解放」。 (「忘れ草」とも言われた。) われに法あり君をもてなすもぶり鮓 子規 ※ もぶり鮓は松山の郷土料理、「もぶる」とは混ぜるの意。ちらし鮨。 その穴は日除けの柱立てる穴 虚子 ※ 「写生」とは決して「ありのまま」ならず。己をリアルに写してこそ。 萱草の一輪咲きぬ草の中 夏目漱石 菫程な小さき人に生れたし 夏目漱石 梅雨明けや深き木の香も日の匂 林 翔 萱草が咲いてきれいな風が吹く 大峯あきら ノカンゾウ咲く古里に帰りきて 三日目の今日ひっそり暮れる 鳥海昭子 |

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