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平成24年7月9日(月)昨日:中日藤井、サヨナラ打「カッコいいお父さんに」。 < 中日 2―1 DeNA > (8日・ナゴヤドーム) 中日は2対1で横浜DeNAにサヨナラ勝ち。延長10回、1死満塁の場面で、藤井淳志がライトへ サヨナラタイムリーを放った。 藤井のコメント「10回が始まる前に打順を見て、回ってくるとしたらチャンスの時だと思っていたので、思いっきり打ってやろうと … 。何とか食らいついていこうとしか思っていなかったので、打った瞬間のことはあまり覚えていないけど、抜けていった瞬間に感情が湧き上がってきました」「(仲間から手荒い祝福を受けたが?)今まではする側だったので、される側はどんな気持ちなのかなと思っていたんですけど、冷たい氷や水も心地良いものだと分かりました。これまで得点チャンスで何度も打席に立たせてもらいながら、貢献することができずにいたので、今日こういう形で貢献できたことがうれしいです」。 「(ナゴヤドーム14連勝については?)大勢の人の前で勝てたし、勝利に貢献できて最高です。それから私事ですが、4月1日に長男が生まれて、カッコいいお父さんになりたかったので、今日は本当にうれしいです! (9連戦に向けては?)とにかく1戦1戦を大事にしながら、チームに貢献できるよう頑張ります!」。 藤井にとって、自身初のサヨナラ打だった。 高木監督「この展開からしたら、引き分けでもいいと思ったけど … 」 中日が今季5度目のサヨナラ勝ち。1−1の延長10回1死満塁。途中出場の藤井淳志外野手(31)が低めフォークに食らいつき右翼線に引っ張った。劇的な勝利でチームは本拠地ナゴヤドームで14連勝。藤井は「時間も時間だったので、ああいう場面で打席に立たせてもらって感謝です。抜けていくのが見えて実感が湧いた」。高木守道監督(70)は「今日の展開からしたら引き分けでもいいと思ったけど」と笑顔で話した。 ※ 内に良しと書いて「内良(ないろう)」、では外はどうなんじゃ? 流れ流れて関東は、15連敗情けなや、心にゃ硬派の血も涸れて … (涙) 7月9日は、上田 敏の命日 です。 ◇ 上田 敏(うえだ びん、1874年〜1916年) 文学者、評論家、啓蒙家、翻訳家。多くの外国語に通じて名訳を残す。「上田柳村」とも号す。 旧幕臣・上田絅二(けいじ)の長男として1874年(明治7年)、東京築地に生まれる。絅二は昌平黌教授をつとめた儒学者・乙骨耐軒の次男。静岡尋常中学、私立東京英語学校、第一高等学校を経て、1897年(明治30年)東京帝国大学英文科卒。在学中に「帝国文学」創刊にかかわる。 大学院では小泉八雲に師事し、小泉八雲から「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生である」とその才質を絶賛されたという。卒業後、東京高等師範学校教授、東大講師(八雲の後任)となる。 第一高等学校在学中、北村透谷、島崎藤村らの文学界同人となり、東大在学中、第一期帝国文学の創刊(1895年)にかかわる。 1902年(明治35年)6月、主宰誌の『芸苑』と廃刊になっていた森鴎外の主宰誌『めざまし草』とを合併し、『芸文』を創刊。その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月には後身の『万年艸』を創刊。その後、鴎外とは家族ぐるみで交際した。 1908年(明治41年)欧州へ留学。帰国後、京都帝国大学教授となる。1910年(明治43年)2月15日、慶應義塾大学文学科顧問に就任。1916年(大正5年)、東京の自宅で森鴎外を訪ねようと支度中に倒れ、腎臓疾患で急死、享年41。 ヨーロッパの文芸思潮を熱心に紹介し後進を啓発。永井荷風は、「上田先生などの著述の感化で、西欧の風物文物へのあこがれを持った」由を綴っている。訳詞の流麗さと解釈の正確さは今も高く評価されている。 ◇ 『 海潮音 』 上田 敏・訳 大寺の香の煙はほそくとも 空にのぼりてあまぐもとなる あまぐもとなる 卷中收むる所の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亞に三人、英吉利に四人、獨逸に七人、プロヴンスに一人、而して佛蘭西には十四人の多きに達し、曩の高踏派と今の象徴派とに屬する者其大部を占む。 高踏派の莊麗體を譯すに當りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉體を飜するに多少の變格を敢てしたるは、其各の原調に適合せしめむが爲なり。 < 中 略 > 譯述の法に就ては譯者自ら語るを好まず。只譯詩の覺悟に關して、ロセッティが伊太利古詩飜譯の序に述べたると同一の見を持したりと告白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に富みたる自國詩文の技巧の爲め、清新の趣味を犧牲にする事あるべからず。而も彼所謂逐語譯は必らずしも忠實譯にあらず。されば「東行西行雲眇々。二月三月日遲々」を「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」と訓み給ひけむ神託もさることながら、大江朝綱が二條の家に物張の尼が「月によつて長安百尺の樓に上る」と詠じたる例に從ひたる所多し。 明治三十八年初秋 上田敏 カアル・ブッセ 「山のあなた」 山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ 噫、われひとゝ尋(と)めゆきて 涙さしぐみかへりきぬ 山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ ヘリベルタ・フォン・ポシンゲル 「わかれ」 ふたりを「時」がさきしより 晝は事なくうちすぎぬ よろこびもなく悲まず はたたれをかも怨むべき されど夕闇おちくれて 星の光のみゆるとき 病の床のちごのやう 心かすかにうめきいづ ロバアト・ブラウニング 「春の朝」 時は春 日は朝 朝は七時 片岡に露みちて 揚雲雀なのりいで 蝸牛枝に這ひ 神 そらに知ろしめす すべて世は事も無し エミイル 「法の夕」 夕日の國は野も山も、その「平安」や「寂寥」の 黝(ねづみ)の色の毛布(けぬの)もて掩へる如く、物寂びぬ 萬物凡(なべ)て整(とゝの)ふり、折りめ正しく、ぬめらかに 物の象も筋めよく、ビザンチン繪の式(かた)の如 時雨村雨、中空を雨の矢數につんざきぬ 見よ、一天は紺青の伽藍の廊の色にして 今こそ時は西山に入日傾く夕まぐれ 日の金色に烏羽玉の夜の白銀まじるらむ めぢの界(さかひ)に物も無し、唯遠長(とほなが)き並木路 路に沿ひたる樫の樹は、巨人の列(つら)の佇立(たゝずまひ) 疎らに生ふる箒木(はゝきぎ)や、新墾(にひばり)小田(をだ)の末かけて 鋤休めたる野らまでも領ずる顏の姿かな 木立を見れば沙門等が野邊の送の營に 夕暮がたの悲を心に痛み歩むごと また古六部等が後世安樂の願かけて 靈場詣(りやうぢやうまうで)、杖重く、番の御寺を訪ひしごと 赤々として暮れかゝる入日の影は牡丹花(ぼたんくわ)の 眠れる如くうつろひて、河添馬道(めだう)開けたり 噫、冬枯や、法師めくかの行列を見てあれば たとしへもなく靜かなる夕の空に二列(ふたならび) 瑠璃の御空の金砂子(きんすなご) 星輝ける神前に 進み近づく夕づとめ ゆくてを照らす星辰は 壇に捧ぐる御明の大燭臺(だいそくだい)の心(しん)にして 火こそみえけれ、其棹(さを)の閻浮提金(えんぶだごん)ぞ隱れたる ◇ 今日の誕生花・ギボウシ(ユリ科) 花言葉は、「静かな人」「沈静」。 涼しさや雲に碁を打つ人二人 子規 (明治28年の句) ※ 明治35年に没する子規。献身的看病をする虚子と碁を打つことも … 団子坂上り下りや鴎外忌 虚子 ※ 子規は遼東半島で鴎外を知る。鴎外、子規、虚子らで句会を共にす。 ふところに四万六千日の風 深見けん二 ※ 【四万六千日】:観音さまの御縁日は「毎月18日」ですが、これとは別に室町時代以降に「功徳日」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当する御利益が得られると信仰されてきました。中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていました。 ところが浅草寺では、享保年間(1716〜36)頃より「四万六千日」と呼ばれるようになり、その御利益は実に46,000日分(約126年分)に相当すると云われるようになりました(この数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説ありますが、定説はない)。 この10日を待って一番乗りで参拝したいという民衆の思いから、前日の9日より人出が多く、7月9・10日の両日が四万六千日の御縁日と受け止められるようになりました。 また、この両日には「ほおずき市」が開かれます。そもそもこの市は、芝の愛宕神社の縁日に始まり、「ほおずきを水で鵜呑みにすると、大人は癪を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるなど、薬草として評判であったようです。その愛宕神社の縁日は観音さまの功徳日にならい四万六千日と呼んでいたのですが、やがて「四万六千日ならば浅草寺が本家本元」とされ、ほおずきの市が浅草寺境内にも立つようになり、かえって愛宕神社をしのぎ盛大になったと伝えられています。 鬼灯市夕風のたつところかな 岸田稚魚 旅ゆけば我招くかに擬宝珠咲く 角川源義 ギボウシの花の一つにもぐりたる 蜂がかそかな音たてるなり 鳥海昭子 「男の子の初体験」 |

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