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平成24年7月24日(火)昨日:「陽さま」初出場でMVP、賞金300万円。 < 全パ 6―2 全セ > (23日・盛岡) マツダオールスターゲーム第3戦は、またもこの男だった。第1戦の先頭打者弾に続く先制弾。三回一死一、二塁で全パの1番、陽岱鋼(ヨウ・ダイカン、日本ハム)が、三浦(DeNA)の138キロの内角高め直球を一撃で仕留める先制3ランを、岩手の野球少年で埋まった左翼芝生席に打ち込んだ。 「みなさんがおいしいところを回してくれた。子供たちの笑顔が見られて、ファンサービスもできてよかった」。 同一シリーズで2本の先制弾は、1979年の巨人・王貞治(現ソフトバンク球団会長)、1998年の巨人・松井秀喜(現レイズ)に続いて球宴史上3人目の快挙。一回の左前打、四回の右前適時打と合わせ、3安打4打点の大暴れだった。 初出場でMVPに輝き賞金300万円を獲得。第1戦も杉内(巨人)から44年ぶりとなる初打席での先頭打者弾で100万円(敢闘選手賞)をゲット。真夏の4日間で計400万円の臨時ボーナスを手にした。 「もちろん全部、嫁に渡しますよ」と陽岱鋼。偉業を成し遂げたお祭り男は、球宴で掴んだ自信を引っ提げ、北の大地でもファンを魅了するだろう。 ※ 極楽は西にもあらず東にも 皆身にぞある“妻宝”浄土 ◇ 全パが全セに6−2で快勝し、対戦成績を1勝2敗で終える 全セ・高木守道監督(71=中日)の話:畠山の本塁打も出たし、ヒットの数も出たし良かった。オールスターで、さすがに鋭い当たりだった。(復興支援試合で)ファンが熱く応援してくれたのが何より。われわれはずっと(被災地を)応援していく。 7月24日は、谷崎潤一郎の誕生日 です。 ◇ 谷崎潤一郎(1886年〜1965年) 明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き、終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても、近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は高い。 東京日本橋蛎殻町に生まれた。乳母の付添なしでは小学校への通学も嫌がるほどの臆病者で、欠席が多く一年生で落第している。しかし、翌年の教師とは相性がよく、たちまち首席となる。その後、父・倉五郎の事業が失敗し、家は零落する。中学進学すら危ぶまれたが、本人の熱意や、先生の説得もあり、ようやく伯父の援助で進学することができた。府立第一中学へ進学した彼は、飛び級するほど成績優秀だったが、家計の苦しさから住み込みの家庭教師をしながらの苦学の日々を送った。 第一高等学校へ進学した頃から作家志望の気持ちを高め、東京大学国文科に進んだが、国文科は「授業を怠けるのに都合がいい」という理由で選んだ。大学にはあまり通わず両親の家にも寄りつかず、同人雑誌を発刊したり、放浪無頼の生活を続けていました。その後、授業料未納で大学を中途退学した彼は、『誕生』『刺青』など次々と作品を発表するが、当時、自然主義文学全盛の文壇の中で全く問題にされず、煩悶し神経衰弱に陥ってしまう。 明治44年『三田文学』11月号で、永井荷風が彼の作品をとりあげて激賞したことがきっかけで、彼は文壇に華々しくデビューする。『少年』『悪魔』『異端者の悲しみ』『痴人の愛』などによって、名声をあげ、官能の世界を描き出して耽美派と言われ、悪魔主義の文学とも呼ばれましたが、のち古典的な作風に変わり『春琴抄』『芦刈』『吉野葛』などの名作を書く。 昭和14年から『源氏物語』の現代語訳にとりかかり、7年かかって完成し、「谷崎源氏」と謳われた。また、第2次世界大戦中に書き始めた『細雪』は戦後に完成。 昭和24年には文化勲章をうけ、その後も、次々と老年と性、死とエロス、を正面から見すえた作品を発表。昭和31年の『鍵』は、その大胆な性描写が、芸術か猥褻かをめぐってセンセーションを巻き起こす。 昭和40年7月30日、腎不全から心不全を併発し、湯河原町の湘碧山房で亡くなる。79歳だった。 ◇ 今日の誕生花・ニッコウキスゲ〔ゼンテイカ〕(ユリ科) 花言葉は、「日々あらたに」「心安らぐ人」。 夏の月大長刀の光哉 子規 橋裏を皆打仰ぐ涼舟 虚子 まだ逃げるつもりの土用鰻かな 伊藤伊那男 空蝉をあかるき雨の過ぎにけり 井上弘美 ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火 山原のニッコウキスゲ空に映え 日々あたらしく夏深めゆく 鳥海昭子 |

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