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平成24年10月12日(金)昨日:ノーベル文学賞は、中国の莫言氏。 スウェーデン・アカデミーは11日、2012年のノーベル文学賞を中国人作家、莫言(モーイエン)氏(57)に授与すると発表した。 中国に在住し、中国語で書く作家が同賞を受賞するのは初めて。 スウェーデン・アカデミーは莫氏が「幻想的なリアリズムをもって、民話と歴史、現代をつむぎ合わせた」と評価した。賞金は800万スウェーデン・クローナ(約9500万円)。授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれる。 アジアの文学者の受賞はインド人のタゴール、日本人の川端康成、大江健三郎と、フランスに亡命し、フランス語で表現する中国系の作家・高行健の各氏に続いて5人目。 莫氏は山東省高密県生まれ。文化大革命で小学校を中退し、1976年に人民解放軍に入隊。85年に文壇デビュー。1920年代の山東省の極貧の農村に生きる人々を描いた「赤い高粱」は、張芸謀監督の映画「紅いコーリャン」の原作となり、この映画は1988年、ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞を受賞している。 ※ ノーベル賞逸する村上春樹さん 言うこと莫れ「もう言えん」と … 。 ◇ 莫言氏のノーベル賞受賞で「日中対決」を制したとの声も … 中国国内は11日、中国人作家の莫言さんへのノーベル文学賞授賞に喜びの声がわいた。 莫言さんの受賞決定に中国版ツイッター「微博」では「私たちの文化文明が国際社会に認められた」などと歓迎する書き込みが相次いだ。事前のメディア報道では、有力視された村上春樹さんとの「日中対決」との見方もあっただけに、「中国の郷土文学が日本を破った」「村上さんに勝った」など、日本に対する勝利感を強調する書き込みも目立った。 一方、莫言さんは、1994年にノーベル文学賞を受賞した作家・大江健三郎さんとの長年の交友で知られる。中国メディアによると、莫言さんの故郷・山東省高密市の学校の中にある「莫言文学館」には、友情を表す大江さんの書面が掲げられている。 華僑向け通信社「中国新聞社」は11日、「大江氏がかつて『自分の後にアジアの作家が文学賞を取るとしたら莫言氏だろう』と語っていた」と伝えた。 受賞決定後、莫言さんは中国メディアに対し、村上さんについて「非常に優秀だ。ノーベル賞を受賞する資質を完全に備えている」と語った。 莫言さんと20年以上の親交がある毛丹青・神戸国際大教授(日本文化論)によると、莫言さんは約10回も来日し、温泉と刺し身が好きという親日家。昨年7月には毛教授が客員教授をしている神戸市外国語大で講演し、昔は高級料理だったギョーザを食べたくて作家を目指したエピソードなどを披露したという。 10月12日は、佐多稲子の命日 です。 ◇ 佐多稲子(1904年〜1998年)本名:佐多イネ 小説家 長崎市生まれ。出生当時、両親は共に学生だったので、戸籍上は複雑な経緯をたどった。小学校修了前に一家で上京、稲子はキャラメル工場に勤務。このときの経験がのちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。 最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の、中野重治・堀辰雄らと知り合い、創作活動をはじめる。 1926年、『驢馬』同人の一人であった窪川鶴次郎と結婚。1928年、『キャラメル工場から』を発表し、プロレタリア文学の新しい作家として認められる。雑誌『働く婦人』の編集にも携わり、創作活動と文化普及運動にも貢献。1932年、当時は非合法であった日本共産党に入党。 プロレタリア文学運動が弾圧により停滞した時代には、夫・窪川の不倫もあって、夫婦関係のありかたを見つめた『くれなゐ』(1936年)を執筆、長編作家としての力量を示す。しかし、戦争の激化とともに、権力との対抗姿勢をつらぬくことが困難になり、時流に流されていくようになる。戦場への慰問にも加わり、時流に妥協した作品も執筆した。 戦後、窪川と離婚、筆名を佐多稲子とする。戦時中の行動が問われて新日本文学会の創立時には発起人になれなかったが、当初より活躍。また、婦人民主クラブの創立には、宮本百合子たちとともに努力し、戦後の民主化運動に貢献した(婦民の分裂後は多数派の「ふぇみん」側の代表を長らく務めた)。しかし、戦後50年問題、日ソ共産党の関係悪化など日本共産党との関係には苦しみ、とりわけ部分的核実験禁止条約を巡っては、批准に反対していた同党に対し、野間宏らと批判を繰り返していたことから、最終的には除名されるにいたる。彼女の作品には、戦前の経験や活動を描いた『私の東京地図』(1946年)、『歯車』(1958年)があるが、『夜の記憶』(1955年)、『渓流』(1963年)、『塑像』(1966年)など、そうした戦後の共産党とのいきさつを体験に即して描いた作品も多い。 戦後の女性をめぐるさまざまな問題を作品として描いたものも多く、それらは婦人雑誌や週刊誌などに連載され、映画やテレビドラマになったものもある。社会的活動にも積極的に参加し、松川事件の被告の救援にも活躍した。最晩年までそうした関心は衰えず、社会的な発言を続けた。 ◇ 佐多稲子『水』(梗概)初出は「群像」(昭和37年5月号) 昭和30年代の頃、ある少女が上野駅のホームで泣いている。グリーンのセーターに灰色のスカートをはいて、その背をこごめ、幾代という少女は自分の膝の上で泣いている。 膝にのせたズックの鞄を両手に抱え込んでその上で泣いている。 すぐ頭の上の列車の窓から、けげんな顔で人が覗くのも知っていたが、涙はとまらず、そこよりほかの場所に行きようもなかった。 幾代の左足は、少し短い。だから、歩くときにぴょこんぴょこんと左肩が下がってしまうのだ。そのために、子どもの頃、幾代は男の子たちにからかわれた。そんな幾代を必死にかばうのは母親だった。母親は大声でわめいて石を投げつけて男の子たちを追い払い、幾代には、あんたの足が悪いのは自分のせいなのだと泣いて詫びるのだった。 そんな母親を、幾代は反対に可哀想に思った。母親に少しでも楽しい思いをさせたい。温泉にでも行かせてやりたい。そんな思いを胸に、幾代は東京に出てきたのだった。 幾代は旅館に住み込んで働いた。足が悪いので人と違った目で見られることもあったが、そんなことでは負けはしない。毎月少しでも母親に送金できることが幾代の楽しみであり、心の支えだった。 ある日、旅館に電報が届く。幾代の母の危篤を伝えるものだった。旅館の雇い主の言葉は冷たいものだった。「つぎの電報を待つんだね。本当に危篤なら今から富山に帰ったって間に合わないよ」。幾代は大層落胆する。この主人は普段から優しい言葉をかけてくれて、「いつかお母さんを東京見物にでも連れておいで」とか、「その時はうちに泊まりなさい」などと、言ってくれていたからだ。すぐにでも帰らせてもらえると思ったのに … 、裏切られたような思いが募ります。 やがて、「ハハ、シス」の電報が届いてしまう。幾代は意を決して帰ろうとするが、主が不在で留守番をしていた奥さんは、「もう死んだんだから、急いで帰ったって仕方ない」と引き止める。幾代は、それを振り切って不自由な足で駅に向かった。 今、幾代は、郷里・富山に向かうべく上野駅に来ている。だが、その郷里にはもう母はいないのだ。 ふと母親の横顔が目に浮かび、幾代はもう我慢できず、そこにしゃがみこんで、こんこんと泣くのだった。 自分の弱さに母まで巻き添えにしてしまったような哀しさに、幾代は顔を膝に埋めながら泣いている。ホームを行きかう多くの人々は、そんな幾代を気にもとめずに通り過ぎて行くだけだった。泣きながら列車を待つ幾代。 そんな中、すぐ近くの蛇口からは水が勢いよく出しっぱなしになっている。駅の人々は誰も気にも止めずに、不気味な雑沓がひしめき合っている。 すると、幾代は涙を流しながら不自由な足取りで蛇口の処まで行き、そっと蛇口をしめるのだった。そして、幾代は元の場所にしゃがみこんだ。 そこには、いつのまにか春の陽が当たっていた。 ※ 何もかも誰も何にも気づかない 流れる日々のその哀しみを … ◇ 今日の誕生花・シュウメイギク〔キブネギク〕(キンポウゲ科) 花言葉は、「忍耐」。(洛北の貴船あたりに多く見られる菊) 芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし 子規(明治31年の句) ※ 陰暦の十月十二日が芭蕉忌。その二百回忌は明治26年で、旧派の宗匠方が盛大に追善会を催し、廟やら句碑を建てた。同年、子規は新聞「日本」に「芭蕉雑談」を連載する。そこで、旧派による芭蕉の神格化を大いに批判する。芭蕉二百回忌は、子規にとって大きな転換点となった。「吾に派もなく伝もなし」とは、子規の心意気を謳い上げたもの。(陰暦十月十二日は今年、11月25日になります。) 顔抱いて犬が寝てをり菊の宿 虚子 観音の影のさまなる貴船菊 阿部みどり女 貴船菊活けて鏡にみどり差す 岡本差知子 去るものは去りまた充ちて秋の空 飯田龍太 路地裏の空き家の庭に咲きながら シュウメイギクは何偲ぶらん 鳥海昭子 |

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高密第一中学校の中には、記念館ができています。
お兄さんがここで教師をしていたからでしょう。
実家はこのちゅうしんちから車で一時間くらいんk平安村です。近くには弟さんもすんでいます。大江は、ノーベル賞前に訪問しています。
写真はzensouhara69で見ることができます。
2016/12/22(木) 午後 11:30 [ じゃじゃ馬 ]