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平成25年4月12日(金)昨夜:原巨人が3試合連続無得点と元気なし!! < 阪神 3―0 巨人 > (11日・甲子園球場) 阪神は1回裏、鳥谷の適時打で1点を先制。その後は3回にマートンの適時打、8回には福留の適時打で貴重な追加点を挙げた。投げては先発・榎田が8回途中無失点の好投で、今季初勝利。敗れた巨人は、打線が3試合連続無得点と元気なく、先発・沢村を援護できなかった。 1961年4月12日、ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行を成功させた日 です。 ◇ ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(1934年〜1968年) ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。最終階級は大佐。 1961年、ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させた人物。 1960年代、宇宙開発が本格的に始まったことに伴い宇宙飛行士の選抜が始められ、ガガーリンも20人の候補生の一人に選ばれた。ガガーリンは他の飛行士たちとともに、宇宙飛行に必要な身体的・精神的耐久性をテストされながら、厳しい訓練を受けた。 ついに世界初の有人宇宙飛行が行われることが決まった際、パイロットの候補は、ガガーリンとゲルマン・チトフとのどちらかに絞られた。二人とも訓練結果が優れていただけでなく、身長が高くなかったことが決め手となった。初期のヴォストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからだ。最終選考の結果、選ばれたのはガガーリンだった。 この決定は政府上層部によって行われたが、決め手となったのはガガーリンが労働者階級出身にあることに加え温和で社交的な性格と、「ユーリイ」というロシア的な名前、そして労働者階級出身の英雄という点を強調しやすい生い立ちにあった。選考に漏れたチトフは後に、ガガーリンに継ぐ二番目の宇宙飛行士になっており、自ら機体を操縦し大気圏外で食事をするなどの実験を行い、その様子は記録映像に残されている。 1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功する。ガガーリンを乗せた宇宙船は地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱で1周しロシア領内の牧場に帰還した。当初は宇宙船と共に着陸したとされていたが、実際は高度7000mで飛行士を座席ごとカプセルから射出して、一人パラシュートで降下するという、極めて大きな危険を伴うものだった。ガガーリンは、自分が中尉から少佐へ昇進したというタス通信のニュースを飛行中に聞いた。飛行中に伝えた理由とは、当時の政府高官はガガーリンが生還する可能性を低いと考えていたからだといわれている。 地上に無事帰還すると、ガガーリンは一躍「時の人」となった。ニキータ・フルシチョフとの対面では、ガガーリンはこのような計画を成功に導いた共産党の偉大さを大いに賞賛した。フルシチョフにとってもガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めたミサイル力増強計画の成果を示すものであった。 < 不可解なガガーリンの死 > 宇宙からの帰還後、ガガーリンはソビエトの宇宙計画の広告塔として世界を旅する。ガガーリンは激変した自分の環境にもうまく適応したかのようであったが、徐々に精神的に衰弱し酒に溺れるようになった。1961年には自傷行為を起こしている。 その後、ガガーリンは飛行指揮官となるため、訓練の一環として飛行訓練を再開する必要にせまられた。ところが1968年3月27日、教官とともに搭乗したMiG-15UTIでキルジャチ付近を飛行中墜落死する。34歳。事故の原因は長らく不明とされてきたが、1986年に発表された調査資料によれば、付近を飛行していたSu-11迎撃機が高速飛行したため、その衝撃波に巻き込まれて操縦不能状態になった可能性も示唆されている。ガガーリンが搭乗時に飲酒していたという噂も流れたが、彼は飛行前のメディカルチェックに合格しており、死後行われた調査でも飲酒を示す一切の証拠は見つかっていない。 飛行当時は悪天候だった事も含め、ガガーリンと教官の二人をもってしても機体の立て直しは不可能だったとの説もあった。2005年になって発表された新説では、コックピットの通気口が故障か前の搭乗者のミスで開いたままになっており、そこから酸素が漏れ出して低酸素状態になり、意識を失って操縦不能状態に陥ったとしている。事故から50年近くの間、政治的思惑が絡んだ人為的な事故説などの陰謀論が長らくまことしやかに噂されていたが、2011年4月には気象観測用気球との衝突を避けようと機体を立て直すために急旋回するも操縦不能に陥ったことが原因だったとの調査報告書を当時のソ連政府調査委員会が発表していたことが明らかになった。 ◇ 今日の誕生花・シャガ(アヤメ科) 花言葉は、「私を認めて」「反抗」「抵抗」「決心」。 人家近くの雑木林の下草や木陰などの、やや湿ったところに見られるほか、栽培もされる。常緑・日陰を好み、実を作らず地下茎で増えるなど、アヤメ科としては特異な生態をもつ。この点が花言葉の由来とも言えようか。中国が原産地と見られており、かなり古い時代に渡来した「史前帰化植物」と考えられている。 「著莪」「射干」などと表記される。別名に「胡蝶花」あり。 春の海鴎が浮いておもしろや 子規 ※ 明治28年4月12日、対馬沖での句。周囲の反対にも関わらず、日清戦争の従軍記者に志願した子規。だが出航前に休戦が調い、5月には遼東半島金州にて終戦の報を聞く。もとより体調を崩した子規は、記者らしき事も何ひとつできず、持病を悪化させて無為に帰国したのみ。以降、深刻な闘病生活に入る。 掲句は日清戦争に浮かれる子規の、春爛漫なる心情を示す。 明治期や夢のうちなる春霞。 春昼や廊下に暗き大鏡 虚子 ※ 戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉 野遊や肱つく草の日の匂ひ 大須賀乙字 著莪の花白きにわきて雲絶えず 加藤楸邨 シャガ植えし頃や還らず白き雲 掛塔修禅 ※ 旺盛に地下茎を張るので、のり面の補強に移植されることがある。 てらてらとシャガの葉の照る丘ありき 反抗期のわが砦でありき 鳥海昭子 |

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