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平成25年6月1日(土) 曖昧模糊もこ:アベノミクスの評価は? 安倍首相は、日本復活のために金融緩和政策、財政出動政策、そして“異次元”の成長戦略を行うとしたが、前の2つはすでに行なって、ある意味での効果を出している。しかし、継続的な効果の持続には成長戦略の善し悪しが大きくモノを言う。その成長戦略が徐々に見えてきたので、アベノミックスの評価を検討しよう。(Fより) 民主党・自民党の歴代政権で成長戦略が出されている。特に2006年以降、年中行事のように作られては大部分が忘れられている。その大きな理由が規制緩和なしの各省庁からの政策をポッチキスで止めた政策の羅列であり、真剣味がないことが明らかであった。歴代の成長戦略でも、子供園などでの待機児童緩和や再生エネルギーの開発などがあったが、安倍首相が異次元というからには、このような成長戦略ではないということのようであると見た。 そして、各政権でも規制緩和を言っていたが、既得権益者に痛みが伴うために反対され、規制緩和は全然出来なかった。この規制が「岩盤規制」として残っている。それが日本の活性化を著しく阻害している。この「岩盤規制」をどこまで崩せるかが成長戦略のカギであると見ていた。 その「岩盤規制」は、農業の企業制限、混合治療禁止、認可保育園の基準、薬品のネット販売規制、雇用の柔軟性などである。この規制で新規参入や自由な企業活動が阻まれて、世界的な競争環境の中で日本企業は適合できていなかった。 異次元の成長戦略と言うからには、この規制の緩和があると思っていた。世界の投資家もそれがあるなら、黒田日銀総裁の金融緩和で、日本を買えると見たはずである。その上に、小泉元政権で規制緩和を、歴代政権、以降政権より実行した時の大臣であった竹中氏が産業競争力会議のメンバーにいるので、本当に規制緩和ができると期待した。 「過去7年で7回の成長戦略が作られたにもかかわらず十分な経済成長が実現しなかった」と、黒田日銀総裁の金融緩和策は、心理的な効果で企業の衰退を止める円安であり、円安にシフトさせることで改革実行の時間稼ぎができ、またその心理的な効果時間にも限度があることは明確である。 金融緩和で心理的な要因で高級品が買われているが、一般消費は増えていないし、価格の下落は続いている。貿易収支も一層の赤字になり、日本からの輸出増は石油・LNG輸入額の増加よりも低い。経済効果は、円安で割安感が出ている不動産を海外富裕層が買っていることと、日本への旅行がしやすくなって海外からの旅行客が増えていることぐらいである。企業が日本への投資を増やした感じはない。というように心理的効果での東証の株価指数は大きく値上がりしたが、実体経済はあまり違わない。 そしてとうとう、5月23日・24日の両日、日経平均は大きく乱高下したことで、その効果の限界を表した。東証の買いに回っているのは、海外投資家であり、日本が本格的な改革を行うという期待値から買っているのであり、その神通力は本当の改革的な政策が出ないと長続きはしない。成長戦略が第1弾、2弾と出てきたが、もともと期待値が高いので、期待値より大きく見劣りする内容であると言わざるを得ない。海外の投資家の動向が気になる事態になっている。 6月1日は、マリリン・モンローの誕生日 です。 ◇ マリリン・モンロー(1926年〜1962年8月5日) カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。本名、ノーマ・ジーン・ベイカー。 恵まれない幼児期を余儀なくされた彼女は、第二次世界大戦下の1942年、16歳の時に半年で高校を中退し、グレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと結婚する。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後、海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは、航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き出す。 第二次世界大戦末期の1945年、19歳の誕生日を迎えて間もなくのこと、工場で働いていた時に陸軍から取材に派遣された報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出され、写真を撮られる。この写真が陸軍の機関誌『ヤンク』に掲載されたことを機に、ハリウッドへの道をたどることになる。コノバーにそのネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズに、カバーガールになることをすすめられ、モンローは工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募。モデルの基礎教程を終えたノーマの初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンだった。 1946年、20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格、「マリリン・モンロー」という芸名で契約を結んだ。マリリンの名は、1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来する。夫のジムはモデル業に理解を示さず、結婚4年で離婚に至る。 1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するも、契約を切られてしまう。だが、彼女は女優への夢を諦めきれず、コロムビア映画に移籍。『コーラスのレディたち』で準主役となる。コロムビア映画とは、その映画一本のみで終わった。その後は再びヌードモデルなどをしながら、演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探し続けた。生活が苦しく家賃や車の月賦が払えなかったためにカレンダーのヌードモデルになった(写真家トム・ケリー撮影の「ゴールデン・ドリーム」と呼ばれる作品で有名)。しかし、このことが後にスキャンダルを巻き起こすことになる。 1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で、『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出演、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では、不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなる。 1955年、関係が悪化していたディマジオと離婚。結婚生活は9ヶ月しか続かなかった。その後、セックスシンボルからのイメージチェンジを模索する彼女はニューヨークに移り、リー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受ける。『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じ、好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。 1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授のラルフ・グリーンソンによる精神分析を受け続けた。また、アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には、境界性パーソナリティ障害と診断されたが、正確なところは不明。この頃、流産を経験。 1961年にミラーと離婚。この前後から、ケネディの妹の夫のピーター・ローフォードやフランク・シナトラの紹介で前年に大統領となったジョン・F・ケネディと肉体関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されている。 また、ジョンの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとも、関係があったとも囁かれたことがある。同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、共演したクラーク・ゲイブルが撮影終了後に急死したことも重なり、再び不安定になり精神病院に入院。この際、よりを戻した元夫ディマジオが彼女を支えた。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすために制作はほとんど進まず、結局降ろされた(のちにドリス・デイ主演で公開)。 1962年8月5日、自宅の寝室で全裸で死んでいるのが発見された。享年36。直後のマスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道された。 葬儀は元夫のジョー・ディマジオが取り仕切った。映画界からの参列はすべて固辞された。 墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパーク。彼女の死後、ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)が供えられていた。ディマジオ亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられている。 ※ 孤独を怖れ外に求めて内を観ず、マリリン・モンロー・ノーリターン! ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ 第57回左千夫短歌大会(山武市主催)で高校生の部では、ゴリラの孤独を表現 した県立成東高校2年の菱木俊輔君(17)の作品が市長賞に輝いた。 ◇ 今日の誕生花・サツキツツジ(ツツジ科) 花言葉は、「協力が得られる」。 六月を奇麗な風の吹くことよ 子規 ※ 前書に「須磨」とある。日清に従軍、神戸に帰国後、即入院。 大粒の雨になりけりほととぎす 虚子 庭石を抱きてさつきの盛りかな 嘯山(しょうざん) 満開のさつき水面に照るごとし 杉田久女 濡れわたりさつきの紅のしづもれる 桂 信子 咲き盛るサツキツツジをしかと持ち 盆栽展に集う村人 鳥海昭子 |

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