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平成26年2月9日(日)昨日:公明と橋下氏の対立過熱「罵倒、石に刻んだ」。 公明党大阪市議団の待場康生幹事長は7日、橋下市長が辞職表明の記者会見で同党を痛烈に批判したことについて「我が党を罵倒した。一回吐かれた言葉はもう石に刻んだ」と非難した。 これに対し、橋下氏は「なぜ罵倒されたのか、原因を考えてほしい」と強い口調で反論。双方の対立はエスカレートする一方だ。 それぞれ記者団に対して答えた。橋下氏はこれまで、公明党との間で、2012年衆院選での選挙協力と引き換えに都構想実現の協力を取り付けたとする約束があったと主張。今月3日の記者会見では、法定協議会で反対した同党の対応を「議席を得たら約束を反故にするのは人の道に反する」と批判し、1日にも「宗教の前に人の道があるのではないか」と発言していた。 不快感をあらわにした待場幹事長は、橋下氏が法定協で公明党以外の各党を排除する方針を示したことにも「維新と公明だけで協議を続ける気は更々ない」と反発。一方で、橋下氏は「男と男の約束だった。公明党に裏切られたことは一生忘れない」と語った。 ※ 「懸情流水 受恩刻石」と言う言葉がある。懸けた情けは水に流してさっさと忘れなさい、受けた恩は石に刻んで決して忘れてはならないの意味です。 待場幹事長は、受けた恨みを石に刻むお方のようらしい。それは学会に一味同心のお方には相応しくなかろう。 かつて日中国交回復の際に、周恩来氏がわが国に示した言葉がある。とても良い言葉だ。 曰く「感恨須流水 受恩須刻石」。 2月9日は、高野悦子の命日 です。 (岩波ホール総支配人) ◇ 高野悦子(1929年5月29日 - 2013年2月9日) 旧満州大石橋・出身 映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、演出家 ◇ 岩波ホール総支配人の高野悦子さん死去(2013.2.14 14:38) ミニシアター「岩波ホール」総支配人として内外の名画を日本に紹介、映画を通して国際交流に努めた文化功労者の高野悦子さんが9日、大腸癌のため死去した。83歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は岩波ホール支配人で姪の岩波律子さん。 旧満州(現中国東北部)生まれ。昭和19年、富山県に疎開。日本女子大卒。昭和27年、東宝に入社し文芸部で制作企画調査を担当。映画監督を志して昭和33年、パリ高等映画学院監督科に日本人で初めて留学。昭和37年に帰国、テレビドラマの脚本、演出を手がける。 昭和43年、岩波ホール(東京・神田)の創設に伴い、総支配人に就任。映画講座を開講し、講師に著名監督や原作者らを招いて名作を上映。津軽三味線などの民俗芸能や、現代美術、ジャズなどの講座、アングラ演劇上演なども好評を得た。 昭和49年、東和(現東宝東和)の川喜多かしこさんと共に、岩波ホールを拠点にした名画上映運動「エキプ・ド・シネマ」を主宰、ミニシアターの先駆けとしてインド映画『大樹のうた』を皮切りに、『木靴の樹』『旅芸人の記録』など世界の埋もれた名画の発掘・上映を続けた。 昭和56年、かしこさんとともに菊池寛賞を受賞。ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督をはじめとする海外の映画人とも交流を重ねた。 東京国際女性映画祭ゼネラルプロデューサー、東京国立近代美術館フィルムセンター初代名誉館長(平成19年8月退任)。平成元年、芸術選奨文部大臣賞受賞。 著書に『シネマ人間紀行』『黒龍江への旅』『女性が映画をつくるということ』など。 深紅のドレスを好み、終生映画を伴侶とされたお方 父は旧満州鉄道技師の高野与作。姉・岩波淳子は岩波書店社長・岩波雄二郎の妻。姪の岩波律子は岩波ホール・現支配人。 敗戦後、16歳で映画『キュリー夫人』を見て感銘を受け、職業を持って自立する事を決意。 日本女子大学で、南博主任教授の下で「マスメディアと映画」の研究テーマで、日本映画の観客の反応と内容分析と映画企業分析を行い、各新聞・雑誌に発表。1951年卒業後、1953年東宝文芸部に入社し、専用に新設された部署で各作品ごとの観客のマーケティングリサーチを日本企業で初めて実施。 1958年退社後、監督を目指してパリ高等映画学院(IDHEC)監督科に留学。1962年帰国後は、衣笠貞之助監督助手を経て、テレビドラマ演出を目指し放送作家になり、オリジナル脚本3本と脚色1本を書き、1964年念願のテレビドラマ『巴里に死す』を脚色・演出する。 1965年に自らの原案『鉄砲物語』の監督脚本で日本・ポルトガル合作映画化を企画し、11ヶ月間ポルトガル渡航し取材と調整によりシナリオ完成と合作準備を整えた。だが帰国後、映画会社に交代させられ、他の企画としての日米合作『鉄砲伝来記』で別監督で映画化される。これに挫折し、映画監督の道をあきらめる。脚本著作権で訴訟を提訴し和解、原作者として名が記される。 1968年、岩波ホール創立と同時に総支配人に就任。「日本ポルトガル協会」創立に参加し、常任理事に就任。2006年10月、会長に就任。 1974年2月12日、名作映画上映運動「エキプ・ド・シネマ」を川喜多かしこと主宰。 1980年〜1997年3月まで東京国立近代美術館フィルムセンター運営委員を務め、1997年9月〜2007年に初代名誉館長に就任。 国際交流基金主催の、東京での世界地域別映画祭の実行委員として、1982年「南アジア映画祭」、1984年「アフリカ映画祭」、1988年「ラテンアメリカ映画祭」開催に尽力、1990年「東欧映画祭」で実行委員長を務める。 1984年、東京国立近代美術館フィルムセンターの火災で、「フィルムセンター消失フィルムのための募金」運動を設立して、2700万円を集め焼失300本のうち、フランス名画65本の復元フィルムを購入する。 2013年2月9日、大腸癌のために入院先の病院で御逝去。享年83。 ◇ 上村愛子4位、悲願のメダルに届かず モーグル女子 ソチ五輪のフリースタイルスキー・モーグル女子の決勝が8日(日本時間9日未明)行われ、上村愛子(北野建設)は上位6人による3回目で4位となり、メダル獲得はならなかった。 上村は初出場した1998年の長野五輪は7位。ソルトレーク、トリノ五輪と一つずつ順位を上げ、バンクーバー五輪では4位。「なんでこんなに一段一段なんだろう」と嘆いたが、今回も悲願のメダルはならなかった。 上位6人による“スーパーファイナル”の決勝3回目に進んだ。同僚の伊藤みき(26=北野建設)が6日の予選直前練習で右膝を痛めて欠場。星野純子(24=リステル)は予選敗退。そして、この日の予選2回目で5位に入り、決勝に進出した村田愛里咲(23=行学学園教)も直前の公式練習で左膝を痛め、無念の棄権 … 。日本勢でただ一人残った上村。仲間のためにも、最高の滑りを見せたかった。 上村愛子は、思いのすべてをぶつけて滑った。「たぶん自分らしい滑りはできたと思う。バンクーバーが終わった後に、またちゃんと戻ってこられるとは思っていなかった。メダルが獲れるか獲れないかという位置に戻ってこれたのがうれしい」「メダルは獲れなかったけど、すがすがしい気分。全力で滑れたことで点数見ずに泣いてました」と、目をうるませながらも、笑顔を浮かべた。 失意のバンクーバーから1年間の休養を経て、たどり着いた5度目の舞台。すっきりした表情で戦いを振り返った上村は、今後について「今回が最後だと思っているので … 。オリンピックの思い出はすごくいい。メダルはないが、頑張れてよかった」とさわやかに笑った。 ※ 5度目の挑戦も実らなかった。良くも悪くもそれが上村愛子なのだ。平均点は極めて高いが、その先のブレークスルーに欠ける。上村とは全く対照的なのが、長野五輪での金メダリスト・里谷多英だった。典型的な「一発屋」だった。 現役選手の時期は短い。されど、人生は長いのだ。上村愛子には、脚実地を踏む堅実さがある。いつの日か、彼女が指導者として育て上げた選手が、そのメダルを上村愛子にかけるシーンを夢想する … 。 ◇ 今日の誕生花・カンボケ(バラ科) 花言葉は、「情熱』。 春寒き寒暖計や水仙花 子規 ※ 子規の病床なる世界とは、「枕許にちらかってあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壷(だこ)、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ … 』。 昨日と寸分違はぬ今現在。 そして … 、明日もまたかくありなむか痰を吐く。 病床の句作ばかりが子規の生。 子規という人間は、我欲強く、喰い意地汚く、堪え性がなかったと云う。彼に句作なかりせば … 。 田一枚一枚づつに残る雪 虚子 寒木瓜や先きの蕾に花移る 及川 貞(てい) 寒木瓜を花より朱き卓に置く 水原秋櫻子 寒木瓜のほとりにつもる月日かな 加藤楸邨 寒木瓜の影や濡れたる土の上 川崎展宏 寒の陽をはねかえしたるカンボケの 心根朱し素朴に朱し 鳥海昭子 |

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