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平成26年2月22日(土)福島原発:汚染水漏れ、ミスか故意か?誰かが弁を開閉。 福島第一原子力発電所で高濃度汚染水110トンが貯蔵タンクからあふれた問題で、東京電力は21日、タンクに注水する配管の3個の弁のうち、19日深夜に漏水を見つけた時は閉まっていた弁が、19日の間に2度、何者かによって操作され、約半日にわたり開いていたと発表した。 作業員への聞き取り調査では、誰が弁を操作したのか分かっていない。弁は手動式で、レバーを付けて回さないと開閉できない。東電は、ミスと故意の両面で、弁が操作された経緯を調べている。 東電によると、汚染水があふれた「H6エリア」のタンクの注水用配管には弁が3個ある。漏水が分かった直後の20日午前零時過ぎに撮影した写真では、2個が開き、1個は閉まっていた。3個とも開かないと注水されない構造で、東電は20日、「閉まっていた弁は故障した疑いがある」との見解を示していた。 ※ 前政府が「収束」したと言い、現政府が「コントロール下にある」という原発事故後の諸々の事象は、実は全く「収束」も「コントロール下」にもない。現場では生き死にを賭けた「戦場の闘い」が、日夜繰り広げられている。専門家は被曝のリスクを冒さない、熟練工は被曝線量が限度を越えて第一線を退いた。現場は素人同然の作業員の方々の努力に委ねられているのだ。これは、国策事業の明確なる破綻を示している。 2月22日は、高浜虚子の誕生日 です。 ◇ 高浜虚子(1874年〜1959年) 本名・高濱 清 愛媛県出身 明治・昭和期の俳人・小説家。『ホトトギス』の根本理念、「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱。 1888年(明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。一歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年(明治24年)子規より虚子の号を授かる。 1893年(明治26年)、碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にし、その下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入するも中退、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込む。1895年(明治28年)12月、自身の短命を悟った子規より後継者となることを要請されるも、これを拒む(いわゆる「道灌山事件」)。 1897年(明治30年)、元は碧梧桐の婚約者でありながら、碧梧桐の入院中に親密になった大畠いと(糸子)と結婚。1898年(明治31年)、萬朝報に入社するも母の病気のため松山滞在中に長期欠勤を理由に除籍され生活に困窮する。子規の協力を得て前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えた俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受ける。子規の没した1902年(明治35年)、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭する。 1910年(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごす。1913年(大正2年)、碧梧桐に対抗するために俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える一句、「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠む。 同年、国民新聞時代の部下であった嶋田青峰にホトトギスの編集一切を任せる旨を表明。 1937年(昭和12年)芸術院会員。1940年(昭和15年)日本俳句作家協会(翌々年より日本文学報国会俳句部会)会長。1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮らす。 1954年(昭和29年)、文化勲章受章。 1959年(昭和34年)4月8日、85歳で永眠。墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。忌日の4月8日を虚子忌、椿寿忌という。 生涯に20万句を超える俳句を詠んだ。 2000年(平成12年)3月28日、長野県小諸市に小諸高浜虚子記念館が開館。4月、兵庫県芦屋市に虚子記念文学館が開館。 ◇ 虚子の俳誌「ホトトギス」 『高浜虚子の世界』(山田弘子) 高濱虚子没後四十年、ついに虚子を顕彰する念願の「虚子記念文学館」の完成を見ることが出来た。これは「ホトトギス」一門にとっては勿論、全俳壇にとっても待ち望まれた喜びである。 虚子(本名・清)は明治七年、父池内庄四郎政忠(後、信夫)と母柳の四男として愛媛県松山に生まれた。父は松山藩の剣術監をつとめる武芸の達人であったが能楽もよくし、旧藩時代に地謡方を、維新後は東雲神社の地頭を務めた。 母は虚子幼少の頃から古典文学などを語り聞かせ、虚子の抒情性に大きな影響を与えたと言われる。また能楽への傾倒は父や兄の影響によるところ大であり、演能は勿論、能の脚本の執筆など、その生涯を通じ深い関わりを持って行く。 幼少時代を過ごした風早の西の下の風光は、常に虚子文学の根底を流れる原風景として展開されていくが、これを見てもまさに人間は自然の一部であり、自然そのものであることを虚子文学において実感するのである。 明治二十四年、虚子は学友河東碧悟桐を介し正岡子規の知遇を得る。この出会いは虚子の生涯を決定づけた。その後、子規と虚子との間に交された数多の書簡には、近代文学黎明期の若き情熱が感じとられ興味が尽きない。 虚子と碧悟桐は正岡子規の双璧と目されるが、次第にそれぞれの文学観を醸成させてゆく中で、新傾向に走った碧悟桐と袂を分かち、虚子は「花鳥諷詠」「客観写生」の理念をもって時代をリードして行くことになる。 たとふれば独楽のはじける如くなり 虚子 これは昭和十二年二月、碧悟桐の死を悼んだ弔句であるが、碧悟二人の個性の弾きあうさまを喧嘩独楽に託し友情を懐かしんだ見事な挨拶句である。 虚子は生涯を通じ二十万句を超える俳句作品を始め、小説、写生文など明治・大正・昭和にわたり驚異的な数の文学作品を残したばかりか、多くの優れた作家を育成した。また昭和九年には初めて本格的な『新歳時記』を編み、その序文で季題に対する明快な見解を示した。ここにおいて現代の日本人の根本的な季節感が完成したといえる。この歳時記はまさに虚子の永遠の名作の一書である。 さらに虚子の業績の中で忘れてはならないのは現在につながる女性俳句のきっかけを作ったことである。女性の俳句に目を向け、いち早く女性に俳句をつくらせた。今日の女流俳人隆盛の源流が虚子に遡ることを考えると、その先進性は驚くばかりである。 明治三十年一月柳原極堂によって松山で創刊された「ほとゝぎす」は、翌三十一年秋東京に移され虚子に引き継がれた。以来百年を越えなおその歴史を刻み続けているが、そこには虚子が確立した俳句理念が連綿と流れている。虚子は「花鳥風詠」を深めやがて「存問の文学」さらには「極楽の文学」へと思想を発展させていった。 このような虚子八十五年の多岐にわたる偉業を、いま膨大な資料の裏付けのもとに身近に目にふれる機会が出来たことに大きな昂りを覚えずにはいられない。 虚子作品の秀れた文学性は疑うべきもない。だがその文学性のみを追求しても虚子を解きあかすことにはならないであろう。虚子のいかなる文学作品からも計り知れないエネルギーを感じる。虚子という人は常に「天地宇宙の運行」に呼吸を合わせ、万物の持つ力に自らを委ね俳句を詠み、ものを書き、生きぬいた人であった。天地のエネルギーが虚子の作品となり、息づかいとなって具現されているのである。 白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子 流れゆく大根の葉の早さかな 去年今年貫く棒の如きもの 虚子の忌日は四月八日である。ホトトギス百年を二年後に控えた平成六年、鎌倉の桜は殊の外見事であった。虚子の眠る源氏山はまるで大虚子のふところのようにふかぶかとした桜の花の雲で覆われ、虚子忌に参詣した人は私を含めすべての俳人たちを包み込んでいるように思えるのであった。 みな虚子のふところにあり花の雲 弘子 この思いは全ての俳人に共通のものであり、時代が移っても変わることはないであろう。 ※ 『ホトトギス』は1897(明治30年)年創刊。子規が選者を務め、漱石が小説『吾輩は猫である』を発表した明治期を代表する文芸雑誌。 只今、芦屋の虚子記念文学館で「『ホトトギス』を飾った明治の画人達」展を開催中です。 鎌倉虚子立子記念館(鎌倉市二階堂231-1) http://www.geocities.jp/kamakurakyositatsuko/ ※ かなり辺鄙な処、日曜祝祭日は休館、車で行って難儀、歩いてなお難儀。 ◇ 今日の誕生花・カンシロギク(キク科) 花言葉は、「清純」。 稽古矢の高くそれたる辛夷哉 子規 此谷の梅の遅速を独り占む 虚子 冴え返り冴返りつつ春央(なか)ば 西山泊雲 しんがりは妻がつとめぬ春の風邪 石塚友二 湯や迄はぬれて行(ゆき)けり春の雪 来山(らいざん) 足元を吹く風のなかまっしろの カンシロギクの花ゆれている 鳥海昭子 捨て猫の石をかぎ居つ草いきれ 富田木歩 ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり 小沢昭一 去勢の猫と去勢せぬ僧春の日に 金子兜太 叱られて目をつぶる猫春隣 久保田万太郎 老猫のひるね哀れや二月尽 網野 菊 寒月や猫の夜会の港町 大屋達治 座布団を猫に取らるゝ日向哉 谷崎潤一郎 猫の子のおもちやにされてふにやあと鳴く 行方克巳 愛らしき抱きつき猫や浅き春(2分22秒) |

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