|
平成18年6月20日(火)昨夜:ロッテ、2年連続交流戦首位が決まる。
1177年6月20日、俊寛が鬼界ヶ島に遠流される。平家追討の
密議に加わっていた俊寛が、藤原成親・康頼と共に鬼界ヶ島に流される。
○ 俊寛(1143年〜1179年)「俊寛僧都(しゅんかんそうず)」
平安時代後期の真言宗の僧。村上源氏の出身で、木寺(仁和寺院家)の法印
・寛雅の子。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位。1177年、藤原成親、西光
らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた。だが、
密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経、平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)
へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)
『平家物語』によると、京を遠く離れた南海の島で三人は望郷の日々を過ご
し、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれ
に加わらなかった。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。これに心
を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願の恩赦を行う。翌1178年
に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の
張本者という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に
暮れる。
翌1179年、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛
と再会した。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意、食を断ち自害し
た。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰る。
『平家物語』に描かれたこの悲劇から、世阿弥の『俊寛』、近松門左衛門の
『平家女護島』、芥川龍之介の『俊寛』などの作品が作られた。
○ 歌舞伎「俊寛」のあらすじ
平家全盛の時代、鹿ケ谷での平清盛打倒の密談が発覚して俊寛は丹波少将
成経、平判官康頼と共に無人の鬼界ヶ島に流される。流されて三年目、俊寛
の庵で丹波少将成経と海女千鳥の婚礼を皆でささやかに祝っているところへ
都からご赦免の船が着く。初めのうちは俊寛には赦免状が無く嘆き悲しむが
平重盛らの慈悲で俊寛にも乗船が許される。
しかし千鳥はいくら頼んでも乗せてもらえない。そのうち妻の東屋が既に
殺されている事を知った俊寛は、上使の一人で千鳥の乗船をはばむ瀬尾太郎
兼家を争いの果てに殺し、自分は島に残る決意を固める。千鳥は乗船を認め
られ、俊寛を一人残して船は遠ざかっていく。
遠ざかる船を見送る俊寛が「思い切っても凡夫心」と(波打ち際の想定の)
花道に走り出てくる所で、揚幕から七三あたりまで出てきた浪布が俊寛を本
舞台へと追い返します。本舞台にかけ戻り、岩によじ登って最後の場面。
勘九郎が硫黄島で「俊寛」を野外上演した時、衣装がダメになるから絶対
に海には入らないで、と言われていたのに、思わずどんどん入って行って
しまった、と話していました。
実在の俊寛が流刑地で死んだとき37歳ぐらい。ちなみに、十七代目中村
勘三郎、最後の舞台がこの芝居。そして後年、十八代目中村勘三郎が、
勘九郎時代に硫黄島で演じた作品。
イチローが日本代表にエール 2006年06月20日
「僕らはもう試合がなかったし状況は全然違う。とりあえず試合ができるんだから」と話した後、「しかもブラジルとやるんでしょ。選手は凄い相手とやる事で、どうやったって集中すると思う」と選手の発奮を促した。
決勝トーナメント進出に厳しい状況に立たされているのは、準決勝進出が絶望的となったWBC日本代表と同様。WBCでは優勝候補・米国がメキシコに9回決着で2失点以上での敗戦ということが条件。ただ試合結果を待つのみだった。今回は自力で道を切り開くことができる。しかも、王者ブラジルが相手で最高のパフォーマンスを披露できる条件が整っていると、イチローは考える。
|