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平成18年6月24日(土)昨夜:巨人4連敗、4位転落。
672年6月24日、壬申の乱が始まりました。
天智天皇の死後、長子の大友皇子(弘文天皇)に対して、吉野に出家・隠棲す
る皇太弟(天皇の弟)の大海人皇子(後の天武天皇)が 672年(干支で壬申の年)
の夏に起した皇位継承の反乱。1ヵ月余の戦いの後、大友皇子は自害、大海人
は飛鳥浄御原宮に即位した。
○ 壬申の乱(672年=天武元年、大海人皇子吉野脱出、壬申の乱勃発)
この前年・天智10年10月17日、重い病に沈む天智天皇は皇太弟の大海人皇子
(おおあまのみこ、天武)を呼び、後事を託そうとした。しかし、大海人は先に
使者の蘇我安麻呂(そがのやすまろ)から警戒するように忠告されていたため、
これを辞退。自分は病気の為とても激務に耐えない、として大友皇子を皇太子
に立て、天下を皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ、古人大兄皇子女、舒明
孫)に託すことを勧め、自らは出家して吉野に引退した。
真意は、自らの子である大友皇子への譲位にあった天智は此れを認め大海人
の吉野隠遁を確認した後、群臣に何度も大友皇子への忠誠を誓わせ、12月3日
に崩御された。
その後、吉野と大津との緊張関係は続いたが、この年の5月になって大海人
の舎人(とねり=側近)の朴井雄君(えのいのおきみ)が近江方が山陵造営の
為として集めた人夫を武装させていることを告げた。その外の情報も近江方が
既に臨戦態勢に入っていることをうかがわせるものであった。
このため、大海人は領地のある美濃安八磨郡(あはちまのこおり、岐阜県大
垣市周辺)への脱出を決意するが、事は急を要するため、官道と駅馬の利用を
図った。そこで去就がつかめなかった飛鳥古京の留守居役、高坂王(たかさか
のおおきみ)の動静を探る意味もあって、彼に官道の利用許可証である駅鈴の
貸し出しを依頼する使者を派遣した。
しかし、彼はこれを拒絶する。この情報が近江方に伝わるのは確実である為
その夜、迫り来る危険に大海人は妃の鵜野讃良皇女(うのさららひめみこ、=
天智皇女、後の持統天皇)らを伴って吉野宮を脱出。美濃を目指しての決死の
脱出行が開始されました。(日本書紀)
※ 天智天皇とは、大化の改新で蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子です。
赤穂浪士の「殿中でござる!」どころじゃない、禁裏における暗殺事件の
首謀者です。人を討ちし者、人に討たるるを懼る。大海人が吉野隠棲の旨
を天智天皇に申し出ねば、即座に処断された事でしょう。
漏刻(水時計)で時を知らせた天智天皇は、今日、「時の記念日」で知られて
おりますが、人に歴史あり、ひと皆こころに鬼を飼う、一様ならざる世の習い。
嗚呼、因果は廻る糸車。懼れざるべからず。
Dailymail Digest 2006年 6月27日号
本当はみんな事実を知っていた。ジャパンのW杯1次リーグ敗退を当然と
知りながら、嘘で庶民の期待を煽り続けた大マスコミのデタラメにようやく
非難の声。庶民を騙すこの国の大マスコミ。
それまで勝つ勝つと煽動していた大マスコミが、敗戦の翌日、ジーコ批判
やジャパンの体力技術の劣勢をデカデカ指摘したが、それを書くなら戦う前
にやれというアキレた声。
戦う前は川淵キャプテンの「ベスト4も狙えるチームだ」という噴飯発言
を垂れ流し。「最低でも1勝1分け1敗で決勝トーナメント」と煽ってきた
のは周知の通りだが、もっと驚いたのは、ブラジル戦後の「手のひら返し」
だ。「練習でシュートをはずして笑っているFW。勝つしかないのに冒険的
プレーに出る勇気が持てない選手。試合に出られないからと冷めていた控え
陣」と“戦犯”を列挙した朝日新聞は、日本は組織力と言って個人能力不足
から逃げていた、と切り捨てた。
毎日新聞は「(点を取られて恐慌状態になるのは)大人になり切れていな
い日本の限界」とバッサリだった。日刊スポーツは「選手や監督、日本協会
までもがサッカーバブルに浮かれていた」「ベスト8の目標はあまりに現実
的ではなかった」と「何を今さら……」みたいなことを書いていた。
日本の記者や評論家は勿論、日本の実力をよく知っていたし、この結果も
予測していた。しかし、記事ではウソを書いた。欧州トップクラスの選手を
ズラリと揃えたオーストラリアは「背が高いから暑さに弱い」などと無理な
理屈をこね回し、ファンをだまし続けてきたのである。
それが一転、負けたらボロクソだから、イイ気なもんだ。これぞ、後出し
ジャンケン。ファンにしてみれば、「いい加減にしろよ」なのだが、この国
のメディアはスポーツ報道だけが特殊というわけではない。
事の真相を伝えず、国民をだますのはサッカーに限らぬ。結果がハッキリ
出るスポーツですら真相を伝えないのだから、政治や経済報道はどうなって
んのか。まさに、「そこが恐ろしい」ところである。
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壬申の乱の原因
白村江の敗戦
天智天皇は即位以前の663年に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。
天智天皇は国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。
しかしこれらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与え、大きな不満を生んだ。
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだ。
白村江の敗戦後、国内の政治改革を、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。
瀬田橋の戦いで近江朝廷軍が大敗すると、翌大友皇子が自決し、乱は収束した。
翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。
近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥に移されることになった。
服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていった。
2012/6/23(土) 午後 8:00 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]