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平成18年6月27日(火)昨夕:村上世彰被告保釈、21日ぶりの塀の外 1582年(天正10)6月27日、天下分け目の清洲会議。 ○清洲会議(秀吉の、勝家追い落とし第一弾) 安土桃山時代の1582年(天正10)6月27日に開かれた織田家の継嗣問題及び 領地再分配会議。(秀吉の根回しが奏功) 天正10年の本能寺の変において、織田家当主織田信長は京都で家臣の明智 光秀により討たれ、信長の嫡男織田信忠も二条城で死亡。光秀は山崎の戦い で討たれた。織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、尾張国 清洲城(愛知県清須市)で合議が開催された。集まった織田家家臣は柴田勝家 丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で、 欠席(直前の敗戦を口実に、参加を拒まれたとの説もあり)。 最大の争点である織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝を擁立 する勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する 秀吉との対立となったが、秀吉は光秀討伐の功労者であり、長秀らの支持や 三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも、血統的な正統性が強い事も あって、三法師が後継者として決まり、秀吉はその後見人として収まる形と なった。 領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、 信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は明智光秀の旧領・丹波国を相続。 家臣団へは、勝家が越前国を安堵の上で、勝家の希望から秀吉の領地である 長浜を割譲され、長秀が若狭国安堵の上、近江国の2郡を、恒興は摂津国か ら3郡を、それぞれ加増された。新当主である三法師は近江国坂田郡と安土 城を相続し、秀吉には山城国が与えられた。 { 北畠氏を継いだ次男・信雄<のぶかつ> } 1570年、父・信長の北畠攻めの際に和睦の条件として、北畠具房の養嗣子 となり、北畠具教の娘を娶る。1575年に家督を相続する。北畠氏を相続後は 義父である北畠具教や北畠一門を抹殺、完全に北畠勢力乗っ取りを果たす。 北畠信雄の時代には、信長に無断で伊賀に攻め込み大敗するなどの失策が 続き、信長から叱責された事があった。本能寺の変後、清洲会議で三法師の 後見となった際に織田に復姓した。{ 信雄説明、挿入おわり } 清洲会議では、それまで重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の 影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部 の勢力図を大きく塗り変える結果となった。この時の対立が翌年の賤ヶ岳の 戦いにつながり、織田家の瓦解と秀吉の天下取りへ影響する。 秀吉が三法師を推したのは、腹心の黒田官兵衛の策で、他の宿老たちにも 根回しが行き渡っていた言われる。 ○ NHK大河ドラマ『功名が辻』第24回「蝶の夢」2006年6月18日放送より 日が流れ、清洲城に織田家遺臣が参集。信長の継嗣を決定するのが眼目で ある。柴田勝家(勝野洋)は信長の三男、信孝を推すが、秀吉は信長の嫡孫 まだ三歳の三法師を挙げる。光秀を討った秀吉の発言は重く、三法師の擁立 が決定、秀吉は天下取りの急先鋒に浮上。三法師は秀吉の手に抱かれ、諸候 はその姿に平伏した。実は千代の働きで三法師は秀吉にすっかりなついてい たのだ。織田家を秀吉の好きにさせてはならぬ、市(大地真央)は勝家に再嫁 し、織田家を守ることを心に決めるのだった。 ※ 信孝を推す勝家に対して、秀吉は「筋目が無い」と言い「筋目を違え ることこそ、乱のもとでござる」と言い放った。その後、丹羽長秀が合議を 仕切り、信長の嫡孫・三法師の擁立が決定される。 バフェット氏、株4兆円超をゲイツ氏財団などに寄付 6.26 米投資会社バークシャー・ハザウェイを率いるウォーレン・バフェット氏(75)は25日、保有する同社の株370億ドル(4兆3000億円)相当を、マイクロソフト会長のビル・ゲイツ氏(50)の財団などに譲渡すると発表。慈善事業への個人の寄付総額としては米国最大。 バフェット氏は世界第2位の資産家で、資産の殆どがバークシャー株。今回の寄付は保有株全体の85%に相当。ゲイツ氏の財団に300億ドルを、残り70億ドルをバフェット氏の家族らが運営する4つの財団に譲渡する。 ※ わが日本では、ホリエモン、村上世彰、日銀の福井俊彦など、いわば
インサイダー3兄弟とも言うべき御仁が輩出したが、彼の地、アメリカでは 4兆円をポンと寄付しちゃうエラ〜イお方がおられました。私は米国が好き ではないし、ビル・ゲイツも大っ嫌い。でも、これほどのスケールで寄付を するなんて、アメリカって素晴らしい。南州候の『児孫に美田を遺さず』の 御遺誡は、海を渡ってまった。日の本に 日出ることの 無きごとく。 |

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